2010/4/3 絶句が出来ないマスメディア

起床7時20分、体重73.20キロ(前日より−0.45)、血糖値114、血圧130-82、心拍数62。
血糖値が高い。今日は基準値を超えている。昨日より8高い。
当分の間、毎日測って推移を見よう。
天気は快晴、風は冷たい。


朝、企画書を書いて5キロジョグ。
ブランクがある割りには走れるものだと自分に驚く。


…いつもより少し早めに出て眼鏡店へ行く。
生島眼鏡店ではない。
メガネのミキ西宮店です。
眼科でもらった処方箋を持ち込みオーダーする。
遠近両用とパソコン用。
パソコン用は遠近両用のようにレンズの上下で度の違うものを勧められる。
近々両用というらしい。
レンズの上半分がパソコンのモニター画面の距離に合っている。
下半分が手元の資料を読む、より近い距離のレンズ。


…久々に書店、阪神西宮駅のブックファーストへ寄る。
セルジオが記事を書いた『男の隠れ家』と『Number』増刊号。
目にとまった糖尿病関係の新書を買う、
タイトルは『糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい』 (講談社+α新書)
僕は 白飯、うどん、蕎麦が主食である。
つい麺類やおにぎりだけを食べること多し。
いなり寿司やパンだけで済ませること多し。
うどんやざる蕎麦だけで済ませると低カロリーだと安心する。
何よりも麺類が大好きである。
どうやらタンパク質や脂肪よりも炭水化物が血糖値をもっとも上げるらしい。
確かに実感としてそれはある。
太るのも僕の場合は炭水化物。
ステーキや焼き肉はそれほど量が食べられない。
ご飯や麺やパンが危険。
とはいえ炭水化物をとらないわけにはいかない。
この本ではステーキやアルコールは血糖値に問題はない、とある。
有り難い話だけど高血圧や高脂血症、痛風に良くないのは明白だ。
炭水化物だけに依存するのをやめ、量を減らすこと、運動をすること。
肉、魚、野菜、ご飯をバランス良く食べること。
結局はそこに戻るのだ。
何のために読んだのか…?

糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい (講談社+α新書)

糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい (講談社+α新書)



…『内田樹の研究室』にまた慧眼ある一文が載る。
タイトルは「マスメディアの凋落」。
http://blog.tatsuru.com/2010/04/02_1243.php 
以下引用。


  マスメディア、とりわけ新聞の凋落について今書いている。
  新聞メディアの急速な失墜をほとんどの人は
  「インターネットに取って代わられた」という通信手段のシフトで説明している。
  けれども、私はそれはちょっと違うだろうと思っている。
  新聞メディアの凋落は、
  「速報性やアクセシビリティにおいてインターネットにアドバンテージがあるから」
  という理由だけでは説明できない。 
  少なくとも、私が「新聞はダメだな」と思うのは、そういう理由からではない。
  新聞の凋落は、その知的な劣化がもたらしたものである。 
  きびしい言い方だけれど、そう言わざるを得ない。  
  新聞記事の書き手たちは構造的にある「思考定型」をなぞることを強いられている。


知的劣化の要因、「思考定型」を新聞をなぞるのは読者におもねているからだと僕は思う。
今の時代を、いま起きている事件を、単純に、定型的に、新聞が書いてくれる。
たとえば、小沢一郎=土建政治、金権政治、独裁、の如く。
その方が読者も視聴者も楽だからである。
自分で判断のもととなる材料を集めて思考しなくとも済む。
記者クラブで談合記事ばかり書いているうちにそれが当たり前となる。
みんなで書いた筋書きに異論をはなむな。
へたに異論を唱えると読者の精神衛生上よろしくない。
とにかく自分で判断するのは面倒だ。
本来は多様な意見があってしかるべき民主国家で 多様は無用になってしまった
知的な劣化はマスコミと読者とのなれ合いの果てなのだ。 


内田先生は新聞のことに触れているがテレビもまったく同じ。
ほとんどの情報番組が新聞をなぞっている。
救いは生中継という手段がテレビにはあるということだけ。


ネットは掲示板や2チャンネルなどが“炎上”したり“荒れ”たりする。
気味が悪い、低俗だとの批判がある。
新聞やテレビは荒れていないのだろうか。
コントロール可能な、情報操作が可能なメディアだから“荒れない”のだ。
怪しげな投稿やファナティックなメールを抑え込んでいるに過ぎない。
ゆえに紙面は混乱せず安心感があるように見える。


国民はわかりやすい答えを求める。
実は亀井大臣のゆうちょ限度額の問題だってどうなるかわからない。
誰かがこれは民営化からの逆行だといえばそうですねと思うし、
民業圧迫だという声が強くて耳障りが良ければマスコミの論調は流れる。


玉石混淆。
狂気もサイコも含め、世界には多様な人間が生きて、多様な考え方がある。
ネットはそれをあぶり出したに過ぎない。
面倒くさいことだと思う。
でも、経済がグローバル化してしまったのと同じ
もう後戻り出来ない。


内田先生はこう結んでいる。


 「なぜ私は『こんな話』ばかりしているのか?」という自省をすることができない。
 自省したら絶句するからである。
 商売柄、メディアは「絶句すること」が許されない。
 逆に言えば、インターネットメディアの利点は
 「用がなければ黙っている」ことができるということである。
 「黙ることが許される」というのは思考する人間において手放すことのできない特権である
 「ときどき長い沈黙のうちに沈む」というのは、人間がものを深く、
 徹底的に考えるための「マスト」である。
 新聞やテレビのような
 「定期的に・定量の情報を発信することをビジネスモデルにしているメディア」
 の最大の弱点はそこにある。
 黙り込むことが許されない。 
 自分はどうして「こんな話」ばかりしているのか…
 という深甚な、ある意味で危険な問いを抱え込むことが許されない。
 その自省機会の欠如が、メディアのもつべき批評性の本質的部分をゆっくりと腐らせてゆく。 
 たぶんそういうことだと思う。