ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

2011/5/11 5年ぶりの涌谷町

宮城県涌谷町の水田と江合川の土手に咲く菜の花。
涌谷町を訪れるのは5年ぶりだった。
町には倒壊した古い農家がそのままだったり、ひび割れ、陥没した道路が目立つ。
津波の被害はなくとも巨大地震が襲った爪痕は今も残っている。
驚いたのは江合川にかかる橋、両側の堤防が陥没したために1メートル以上の段差が生じた。
大型車は今も通行禁止となっている。


今日から4日間は早寝早起き。
シフトした最初の一日は辛い。
睡眠時間が3時間弱で目覚める。
雨の朝、6時過ぎに自宅を出る。
阪神電車、リムジンバスを乗り継ぎ7時半に伊丹空港着。
空港にてベーグル&珈琲というハイカラな朝食、560円也。
セルジオと合流後、JALのラウンジで少し居眠りする。


10時半、山形空港にランディング。
晴れてはいないが雨でもない。
空港の西側にはかつて登った葉山が山頂付近に雪を残して在る。
到着ゲート前のトヨタレンタカーの窓口に並ぶ。
受付の美人のスタッフの山形なまりに得したような気分になる。
借りたのはプリウス、3泊4日で3万円弱プラス燃料費。
空港周辺はさくらんぼ(桜桃)の白い花が満開、種類は有名な佐藤錦だろうか。


山形空港から宮城への道はいくつかの選択肢がある。
今日は夕刻までに涌谷町に着けばいいのでいろいろと寄り道して行こう。
空港のある東根からルート13を北上、尾花沢から銀山温泉への道を辿る。
風情ある古い町並みで人気の銀山温泉は閑散としていた。
数年前にセルジオが行った時は次々と観光客がやってきたらしい。
これも震災に二次被害なのだろうか。
おかげで共同湯に貸し切りでつかることが出来た。
タオル付で500円也。
湯上がりに川沿いを歩くが木造建築で有名な「能登屋」は改装(修復)中だった。


そのまま峠越えで仙台藩(宮城)の領地へ入ることも出来たが腹の虫が鳴る。
銀山温泉から先の山道に飲食店は少ないだろう。
(あっても蕎麦屋が大半、同行のセルジオは蕎麦アレルギーなのです)
尾花沢へ戻り鳴子温泉経由で行くことにする。
戻り道から正面に月山が見える。
まだ頂上高原には雪がたっぷりと残る。
夏スキーが出来る名山だがまだ登ったことがない。
夏にはリフトで楽に登れる。
ヒロと老後にとっておこうと合意したのだ。
尾花沢の町から少し北へ行った道の駅で昼食休憩。
飲食コーナーでビーフカレーのミニを食べる。
一応、カロリー制限ありですから。
意外なことにこれが大当たりだった。
甘口だが濃厚、驚いたのは牛肉の旨さとやわらかさ。
山形牛?米沢牛?それがゴロゴロと入っている。
ミニなのにちゃんと1人前ある。
お値段が350円!
山形の“得したなポイント”でトヨタレンタカーの美人で訛りのあるスタッフ、
銀山温泉の貸し切り状態のタオル付共同湯を抑えて堂々のトップでした。
「道の駅 尾花沢」のビーフカレーミニ350円


美味しいカレーと玉こんにゃく(100円)のランチを終えて鳴子温泉経由で国を越える。
途中の山道の若葉が美しい。晴れていれば さぞや と想像しながら走る。
鳴子峡の手前に中山平温泉がある。
うなぎの湯と呼ばれるぬるぬるすべすべ温泉だ。
かつて佐々木さんと泊まり飲み明かしたラドン温泉という宿へ寄る。
併設の『元蛇の湯』は湯治客専用の渋い宿、渓流沿いにある露天は最高なのだ。
湯治宿はもしかしたら避難所になっているのでは、と思ったが違った。
自信でほぼ半壊状態、現在修復中ようだった。
露天へ通じる廊下の壁には大きく亀裂が入っている。
風呂は休業中の様子。


鳴子峡鳴子温泉、東鳴子を通過し古川方面へ向かう。
途中、差し入れの日本酒、田植え用の長靴などを購入。
夕方の5時過ぎに涌谷町の佐々木さん宅へお邪魔する。
息子が経営するネギ栽培のビニールハウス群、大型の農業機械、
新築の自宅、可愛い二人の孫、久々に会った農民野球選手 佐々木良一さんは元気そうだった。
障害者野球の取材以外でここに来るのは初めてだった。
何をしにここに来たのか、僕の仲ではなんだか所在なく落ち着かない。

およそ一ヶ月前に育苗箱に蒔いた種が発芽し青々とした苗に育っている。
さあ、平成23年の田植えが始まる。


気がつけば今日は3.11からちょうど二ヶ月目。
地元紙河北新報にはきめ細かく震災情報が載っている。
佐々木さんは日本農業新聞の一面の記事を解説してくれる。
宮城県沿岸部では海水を被っていなくても排水面から今年の耕作が出来ないエリアがある。
http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=6560


   宮城県名取市農業生産法人、(有)耕谷アグリサービスは今年の米作りを断念した。
   集落営農組織を法人化し、75ヘクタールの農地を経営していたが、
   東日本大震災で9割が津波に見舞われた。除塩ができず、
   津波が来なかった残りの1割にも水が入れられない。
   原因はどちらも下流にある排水用のポンプ場津波で稼働不能になったからだ。
   “出口”をふさがれ、農業用水を流せないのだ。


作れるのに作れない水田がここにもある。



夕方6時過ぎから飲み始める。
被災した農家の話、津波の話、障害者野球の仲間の話などなどで盛り上がる。
奥さんの手料理で3時間弱で一升瓶が空いた。