2012/2/14 うちに聞くなボケ!

カーネーション』のエンドタイトルをまねて。(ちなみに左が僕の母です)
名古屋の洋装店であつらえたのでしょうか、それともプレタポルテでしょうか。
         


雨の中、午後イチで近所のスポーツクラブへ行く。
予約していた施設の一日体験だ。
グンゼスポーツの「ポートウェーブ西宮」、確か5年前くらいに出来たフィットネスクラブ。
10年前くらいは京橋のコナミで5年くらいアクア会員だった。
そこそこ頑張っていたのだが、いつ行っても混んでるし、着替えを持ち歩かないといけないし、
勝手な理由だが、汗を流しても目の前に飲み屋がいっぱいあるし…。
そのころ、ジョギングも習慣化してたので1年ほどの幽霊会員を経て退会してしまった。


自宅から近い。
どれくらい近いかというとドア to ドアで歩いて7分、自転車で4分。
自宅で着替えて、汗を流して、そのまま帰宅、風呂というのも可能。
ふとプールへ行こう、と思いたてば10分後に泳げる。
肘のリハビリにマシントレーニングもしたいと思っていた。
ジョギングもマンネリ化してきた。
自転車で走るには寒い。
このままでは贅肉のかたまりとなるのは必至。
心機一転。


たまたまスタジオプログラムにあった「太極拳教室」を1時間体験、
その後、体脂肪測定などを経て、ランニングマシーン、ストレッチ、
ウエイトトレーニング1セット、クールダウンでバイク、風呂。
およそ2時間、久々に汗を流した。
5年は経っていると思うが施設は清潔で気持ちがいい。
聞いてはいたが今はランニングマシンやバイク用に専用のテレビがついてるんですね。
音声もワイヤレスで聞くことが出来る。
新鮮だ。
半年くらいは週2回くらいは継続出来るかもしれない。


と、前向きな気持もあるのだけど体脂肪測定の結果はショックだった。


体重74.9(ウエア着用)
体脂肪量 19.1 
体脂肪率 25.4
基礎代謝量 1576


ええええ、25.4だって?
いや、すいません。
驚いたふりです。
予想よりちょっと多いなと思った程度です。
恥ずかしいです。
小太りのおばちゃんくらいの体脂肪率
5年前は…、なんて書くのはやめておきます。
今がすべて。
せめて20は下回りたい。
誕生日を迎えて、前向きな気持と同時に切羽詰まった現実がここにあります。


…『カーネーション』を見る。
これほど笑うドラマも珍しい。
朝ドラを近年それほど見ているわけでもないけどこんなに笑えたっけ?
今日のラスト、サギで警察に捕まっていた北村が優子の結婚式に出たいけど気が引けてる場面。
こわごわ糸子にお伺いをたてる。
「わし、出てもええんかな?」
冷たく言い放つ。
「うちに聞くな、ボケ!」
北村のリアクションでエンドタイトル。
二人揃って爆笑。
ええぞ、糸子、ていうかオノマチ。
ところどころに挿入される糸子のモノローグも笑える。
今日は娘の結婚で浮かれる周囲にひとこと。
(茶番や、茶番)
こんなヒロインがいただろうか。
最近、四十も半ばで自らの来し方を思い返す糸子。
(お父ちゃんの血筋かなあ?そや、血筋や血筋)
父の遺影が写る。
小林薫のひとこと。
「ちゃう(違う)」
ん?空耳か、と驚く糸子。
あれ、わからへんかった人も多かったのと違うかな。
そいでも、お構いなしというドラマも珍しい。
毎回家族がとっくみあいの喧嘩するドラマを見るのも『寺内勘太郎一家』以来だ


でも、これだけ笑わせるから周防さんとの秘めた恋が生きるのだ。
町山智浩がキラ☆キラで話していた。
ナレーションや台詞で説明しない朝ドラ。
秘すれば花、糸子と周防 目だけで演技する二人。
好きとか愛してるという言葉を我慢して使わずにがんばった。
その結末に(もう二度と会えませんように)は確かにじんと来る。
最後の最後に「好きでした」というが、あれはかなり脚本段階で論議があったと想像する。

5年以上前に眼鏡堂氏からすすめられた徳岡孝夫『妻の肖像』を思い出した。
冒頭に横浜の外人墓地に眠るジョン・シコシという人の墓碑銘が紹介される。
とても心打たれるいい話なのであえて書かないでおく。
文庫で出てるから未読の人はぜひとも文庫で読んで欲しい。
その墓碑銘は糸恵さんという彼の妻が書いたものだ。
「糸恵という名の妻は、愛という陳腐な語を一つも使わずに、愛の讃歌を歌っている」とある。
糸恵と糸子、妙な符合。

妻の肖像 (文春文庫)

妻の肖像 (文春文庫)


阿久悠も、愛している、という言葉をあえて使わないと本に書いていたか、誰かが評してた。
勝手にしやがれ」では、好きだ、というかわりにジュリーにこう歌わせた。


   別にふざけて困らせたわけじゃない、愛というのに照れてただけだよ


同じ日のキラ☆キラで町山智浩が今のJポップについて批判していた。
シンガー&ソングライターの書く詞は自分の身も蓋もない直接的な感情表現ばかりだ、と。
確かに阿久悠の詞には物語があった。
「ジョニーへの伝言」「五番街のマリー」「懺悔の値打ちもない」「津軽海峡冬景色」などなど。
愛の歌であるが「ジョニーへの伝言」では友達に、2時間待ってた、そこのところうまく伝えて、と言うだけ。
その返歌である「五番街のマリー」、 男(おそらくジョニー)はマリーのことが気がかりだが行かない。
どんな暮ししているのか 見て来てほしい と友達に頼むものの、
もしも嫁に行って今がとても幸せなら 寄らずにほしい と高倉健のようなことを言う。
(自分で確かめろよ、と突っ込みたくなりますが昔の日本人はそうだったんです)
津軽海峡冬景色」は明らかに自分が主人公ではあるが、津軽海峡の情景の強さが明らかに主人公より勝っている。
それゆえ最後の最後に吐露する感情表現が胸を打つ。
さよならあなた 私は帰ります 風の音が胸をゆする泣けとばかりに
阿久悠の詞は、秘すれば花、の日本の文化だったのかもしれない。
異論はあろうが。