2013/1/17 かなしみを思い出す

18年目の今日、三宮の東遊園地へ行った。
東遊園地という名称だがジェットコースターも観覧車もない。
昔からそう呼ばれている。市役所の南側にあるこぢんまりとした街中の公園。
今日は鎮魂の祈りの場所となる。
人が大勢集まっても静かだ。
声を上げているのはイベントとテレビ中継のスタッフだけ。

  


18年前の今日、僕らはここにいた。
そのことは何度も日記に書いた。
去年、NHKドラマ「その街のこども」を見た感想として書いている。


   ドラマの目的地として登場する東遊園地。
   あの日、震度7を六甲の山中で体験した僕は登山仲間といっしょに山を下りた。
   海側が開けた高台から見た異様な風景。
   幾筋もの煙が立ち上り、街は静まりかえり、埋め立て地は茶色に染まっていた。
   筑紫哲也は温泉のようだと表現しバッシングされたが僕らもそう思った。
   新神戸の歩道には砂が噴出し信号の灯が消えていた。
   足を踏み入れた盛り場の東門街の惨状は凄まじかった。
   マッチ箱のようなビルがいくつも前倒しになり道をふさいでいた。
   見たところ建物の八割が倒壊していた。
   「三宮壊滅やん」
   今だったら大臣が辞任に追いこまれるようなことを言った。
   報道写真で見たベイルートの街のようだった。
   「市街戦の戦場やな」と仲間につぶやいた。
   あれほど破壊された街を見たことがなかった。
   なのに僕らは不思議と冷静で落ち着いていた。
   まだ独身で家族もいなかったからだろうか。
   JRと阪急の高架をくぐり東遊園地へ行った。
   朝の9時頃だった。
   あたりにはガスの臭いが漂っていた。
   市役所が用意した公衆電話には人が殺到していた。
   腹が減っていたのでキャンプ用のストーブでチキンラーメンを作って食べた。
   ほどなく空から自衛隊のヘリが舞い降りてきた。
   電車は動いていない。
   自宅のある甲子園までの20キロをザックを担いで歩いた。
   途中、いたるところでビルや住宅やアーケードが倒壊していた。
   御影にあった七階建てくらいの公団住宅は途中の3階部分が完全につぶれていた。
   そこについ数時間前まで誰かが眠っていたことが想像出来なかった。
   あの時、若くて元気だった僕は何かをすべきだった。
   つぶれて瓦礫の山になった家の前で立ちすくむ人を置き去りにして、僕は東へ歩いた。

  (2012/3/12 の日記より http://d.hatena.ne.jp/shioshiohida/20120313/1331564637


実は今日まで知らなかったのだが東遊園地に金色のマリーナ像がある。
震災の時に倒れ、時計は地震のあった5時46分のまま止まっている。
石版のモニュメントに倒れた写真が載っている。
この写真が撮られたのはいつだろう?
あの日、夜が明けてすぐに撮られたものだろうか。
すぐにこの場所は避難する市民で騒然となったはずだ。
 


写真の奥に植え込みをとりまく円形のベンチが見える。
あの朝、僕らは倒れたマリーナ像の傍らを通り過ぎザックを下ろしこのベンチに座った。
そう記憶しているのだがマリーナ像のことは憶えていない。
今は公園の再整備されてこの円形のベンチは無い。
この写真はいつのものだろう。
そのまま放置されてよいものではないからおそらく当日の朝だろう。
このあと数時間後に僕らが大きなザックを背負ってここに来るのだ。
そう思うと感慨深い。
メディアは日本再生とか経済復興とか改憲とか再武装とか
“見映えのする言動” を好んで報じる。
1.17も3.11もみんなは個人的に寄り添っていた。
しかし、いつのまにか被災者を支援しない奴は「非国民」だ
という物言いをする人の声が大きくなる。
僕は「非国民」とか「国益に反する」とか「売国奴」だとかいう
攻撃的な言葉を聞くことに耐えられない。
かなしみを思い出すこと。
写真をじっと見つめ心に刻み直す。
  


1995.1.17 の他にも灯籠で3.11の数字が描かれていた。
  


誰も責めない。
かなしみを思い出す。
これはそういう物語だった。
     


 
…今日は神戸のシネリーブルで映画『拝啓、愛してます』を見るつもりだった。
その前にブロンプトン(英国製の折り畳み自転車)の専門店で故障したライトを買おうと思った。
店に行き、ライトとロードバイクGiant 用のグリップを選び、いざ支払う段になって気がつく。
サイフがない!
そうかあ、昨日、登山用のザックに入れてそのままだ。


【メモ】
エビアン、その日それぞれの記憶、走るのは自重、黒龍飯店、天五屋バー、引き分け制度の導入