ときどき健康のためには死んでもいいって揶揄されるけど…。
五十半ばを過ぎて、その有り難さが実感出来るようになる。
体を動かして健康になっても、命の流れからすれば焼け石に水、神様は見逃してくれない。
人生最後の10年をどう過ごすか、は自分の選択に委ねられている。
選択しても必ずしも叶えられるものではないが…。
生きてる間は十全な体と心が欲しい。
二者択一、どっちを選ぶかは明白なのだ。
どうせ肉体も心も劣化していくんだから抵抗しても無駄さ。
そういう悪魔のささやきに屈っしそうになる。
いやいや違うぞ。
林真理子「下流の宴」のこんな会話を思い出す。
医者になるべく受験勉強をする珠緒が図書館で広瀬という老人ち知り合う。
広瀬さんは「東大入試中止の年の一橋」に入り、すでに退職し、図書館へ通う。
関連会社の役員になることが決まっていたが権力争いに敗れ隠居の身となった。
家族からはいくじがないと呆れられ図書館に通いぼんやりして暮らしている。
珠緒が言う。
「せっかくいい大学出たのに、なんかつまんないよね。
結局はさ、人って年寄りになって、いつかは死ぬんだよね。そう考えるとさー。東大とか
ヒトツバシ出てもさ、いつか人って、同じとこへ行くんだよねー」
(中略)
広瀬は苦笑いする。しかし、決して不愉快そうではない。
珠緒の反応を面白がっているのだ。
「だけど、僕はそうは思わないよ。絶対にさ」
「あれー、そうなの」
「だってそうだろ、タマちゃん。人間はさ、急に二十歳から、六十歳になるわけじゃない。
その四十年間でさ、いろんなことを経験するんだ。僕はね、世界中のいろんな所へ行ってさ、
楽しい経験をいっぱいした。うんとうまいものを食べたし、酒も一杯飲んだ。
あのね、どうせ惨めな老後が待ってるんだったら、何をしても同じだね、なんていうのはさ、
まるっきり違うと思うよ」
「そうかー、そうだよね」
「そうだよ。この頃さ、タマちゃんみたいな若い人たちがさ、
どうせ、人間行きつくとこは同じ、みたいなことを考えてるだろ。あれって嫌だね。
僕はさ、思い出に生きるつもりはないけどさ、四十年はうんと楽しんだ。
年とってからのことなんか考えなくてもいいんだ。
二十代からの四十年のことを考えて人間って若い時に頑張るんだよ……。
いや、なんか説教臭いこと言っちゃったね。
せっかくのタマちゃんのコーヒーブレイクなのにさ」 (345-346頁)
そうなんだよな。
人は20歳からいきなり50歳にならない。
その間の30年をどう過ごすかが人生なのだ。
当然、60歳から70歳だって同じだと思う。
死ぬまでの、最後の10年間をどう過ごすかの選択。
写真家の星野道夫(1996年没)のこの言葉が好きです。
『結果が思惑通りにならなくとも、そこで過ごした時間は確実に存在する。
そして、最後に意味を持つのは結果ではなく、過ぎていったかけがえのないその時間である』
人生において結果の持つ意味は意外に小さいのかもしれない。
…今日からニュースデスク3連投です。
一週間ぶりのデスクなのに出社していきなり忙しい。
とかなんとか、いろいろあって、日付変更線を越えて帰宅。
明日は早起きして、出勤前にアカシアの山に登るのだ。