2015/1/17 こうして思い出すのは生きているからだ。

誰も責めない。
かなしみを思い出す。
これはそういう物語だった。

2年前の1月17日に書いた日記の最後にこう記している。
映画「その街のこども」についての短い感想だった。
その映画は震災15年に公開されたもので、森山未來と佐藤江梨子が主演、
脚本は西宮出身の渡辺あや、音楽は大友良英、監督は井上剛。
ドキュメントタッチのカメラと主演二人の自然な神戸の言葉がじわじわと胸にしみる佳作だった。
劇場版「その街のこども」予告編 https://www.youtube.com/watch?v=EEj5inOJ6sI#t=61
1995年1月17日午前5時46分、街は一瞬に破壊された。僕たちは生き残った。
それだけの映画だ。
「おれの友だちは幸せやったかもしれへんけどおれは幸せやなかった」
「トラウマ地帯や」
「人の人間関係めちゃめちゃにしやがって」
森山未來の台詞に自然なリアルさがあった。
ええかっこしてないとこに共感できたのかもしれない。
映画冒頭、居酒屋での二人の会話がYou-Tubeに上がっている。
https://www.youtube.com/watch?v=Vr5Doc8pMzA
盗み撮りしかたのような…これどんな台本があってどこをどう演出したのか?



2015.1.17 朝、風が冷たい。
六甲山は雪雲に煙っている。
20年前の5時46分、僕らは六甲山市ヶ原で天幕の中にいた。
  


僕は37歳だった。
1月16日、耐寒トレーニングで友人と二人、菊水山から縦走登山開始、
予定通り市ヶ原で野営、もつ鍋と焼酎で身体を暖める。
耐え難い寒さだった。
モンベルムーンライト3という三人用のテントに二人で寝た。
耐寒温度マイナス20度の羽毛シュラフでも震えるほどの寒さ。
夜中に何度も目がさめて、ようやく眠れたころだった。
耳をつんざくような轟音。
山が震えた。
何かが爆発したのだと思った。
寝袋でイモムシ状態だった僕らは宙に浮き、反転し、叩きつけられた。
さながら中華鍋で炒められる野菜だった。
1分以上続いたように思えた。
揺れがおさまりテントを出た。
まだ暗かった。
しばらくじっとしていた。
地震?
なんか違う。
地震ってこんなんだっけ。
数十頭の馬の群れがテントの周りを暴れているような感覚だった。
なんだったんだ、これ?
ハハ、笑っちゃうよな。
わけがわからないまま夜明けを待つ。
携帯ラジオがあることを思い出した。
ラジオ関西に合わせる。(NHKだったかもしれない)
ニュースはさきほどの揺れが神戸と淡路を襲った大地震であることを告げた。
長田が火の海になっていますと現地から中継が入った。
レポーターが住民にインタビューする。
「おうちはご無事でしたか?」
「燃えとる」聞かれた男はつぶやくように答える。
「ご家族は?」「みんな下敷きや」と平然と言った。
リポーターは「え?」と言ったまま絶句した。
尋常じゃないな、と僕は声に出した。


空が白んできた。
再びテントを出ると両手で一抱えもある岩がいくつも転がっていた。
前夜には無かった。
山が崩れて転がり落ちてきたものだろう。
一つでもテントを直撃したら…ただでは済まなかった。
震度7を山中で体験した僕は友人といっしょに山を下りた。
海側が開けた高台から見た異様な風景を忘れない。
幾筋もの煙が立ち上り、街は静まりかえり、
埋め立て地は茶色に染まっていた。
筑紫哲也は温泉のようだと表現しバッシングされたが僕もそう思った。
新神戸の歩道には砂が噴出し信号の灯が消えていた。
足を踏み入れた盛り場の東門街の惨状は凄まじかった。
マッチ箱のようなビルがいくつも前倒しになり道をふさいでいた。
見たところ建物の八割が倒壊していた。
「三宮壊滅やん」
報道写真で見たベイルートの街のようだった。
「市街戦の戦場やな」と仲間につぶやいた。
あれほど破壊された街を僕は見たことがなかった。
不思議なことに僕らは不思議と冷静で落ち着いていた。
独身で家族もいなかったからだろうか。
JRと阪急の高架をくぐり東遊園地へ行った。
朝の9時頃だった。
あたりにはガスの臭いが漂っていた。
市役所が用意した公衆電話には人が殺到していた。
キャンプ用のストーブでチキンラーメンを作って食べた。
ほどなく空から自衛隊のヘリが舞い降りてきた。
電車は動いていない。
自宅のある甲子園までの20キロを大きなザックを担いで歩いた。
途中、いたるところでビルや住宅やアーケードが倒壊していた。
御影の七階建てくらいの公団住宅は途中の3階部分が完全につぶれていた。
そこについ数時間前まで誰かが眠っていたことが想像出来なかった。
瓦礫の山になった家の前に立ちすくむ人を置き去りにして、東へ歩いた。


武庫川団地へ着いた。
住んでいた部屋は9階にあった。
エレベーターは停まっていた。
階段で上がり部屋のカギをあけた。
冷蔵庫が行く手をふさいでいる。
4つあった本棚が全て前倒しになっていた。
33インチのテレビも棚からゴトリと床に落ちていた。
テレビはもちろん液晶ではなく100キロあった。
部屋にいたら僕はどうなっていたんだろう。
床を敷き詰めていた本の中から電話を掘り出し実家に無事を知らせた。


  



  


震災当日は電気も水道も通っていた。
翌日から電話以外の全てのライフラインがストップした。
阪神電車は甲子園から東は無事だった。
西への交通網はすべてがストップしていた。
翌日、梅田で食料品や乾電池を買い出ししマウンテンバイクで西へ向かった。
芦屋、六甲アイランド、神戸北野町。
会社の仕事仲間や友人に差し入れを届けた。
会社から電話が入った。
被災した神港学園の野球部を取材してくれとのことだった。
それから毎日、阪神電車で大阪へ出て、大正の港から船で三宮へ通った。
震災から一週間以上経ったころだったか。
いっしょに山に登っていた金岡と上野が部屋の片付けを手伝ってくれた。
一人ではとても片付ける気分ではなかった。
さっぱりした部屋でビールを飲んだ。
あれは美味しかったなあ。


もう20年になる。
5年前のことは記憶もおぼろげだが1995年の一月は憶えている。
こうして思い出せるのは生きているからだ。


当時はデジカメも携帯電話も持っていなかった。
フィルムのカメラで撮影した我が部屋の惨状。
これでも…まだ片付けてから撮ったのだ。
  


  


…昼頃にみぞれまじりの雨が降った。
サッカーの震災復興チャリティーマッチ前半が終わる頃に晴れてきた。
ヒロがららぽーと甲子園の無印良品へ行きたいというので自転車で出かける。
お目当ては2年前に80%引きで買えたバーゲンのソックスだったが見当たらず。
ユニクロで僕のヴィンテージチノ1990円と彼女のフリース990円を買う。
なんだか隔週の週末ごとにユニクロが増殖するような気がする。
ヨーカドーのイートインでキャベツ焼きを食べる。
明日の朝のパンを買う。
こういう普通の日常が普通に送ることが出来ることが嬉しい。
アメリカンイーグルで同じ柄のワークシャツを買う。


  


夕方、プールで半時間ほど歩く。
夕食は山形芋煮風鍋。
池井戸潤の半沢シリーズ「ロスジェネの逆襲」を夜中に読了。