ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

09/9/2 映画『花と兵隊』を観る。

     

     


敵地で敗戦を迎えるということ。


「昭和20年8月15日。あの夏、生きて敗戦を迎えても、祖国に帰らなかった日本兵がいた」
チラシにはそんなコピーがある。
この映画を見て最初に思ったことがある。
僕が8月15日のイメージ(もちろん想像に過ぎないが)は日本国内でのものだ。
日本国民は誰もが、あの玉音放送で戦争が終わったことを知ったのだ、と刷り込まれている。
映画や小説や実際に体験した人の話を通して知っている。
でも、少なからぬ日本人は戦場で、そして敵地であの夏を迎えた。
それはどんな体験だろう。
実際には満州樺太の8月15日は内地とは全く違うものだったと知識として知ってはいる。
おそらく、沖縄もそうだったろう。
でも、戦場の兵のことは何故かいつも意識の外にあった。
南太平洋や仏印や中国本土や、ビルマでその日を迎えた兵士も数万いただろう。
多くは殺され、あるいは自決した。
戦争犯罪人として裁かれ、あるいは裁かれることもなく収容所に送られた。
生き残った者はボロボロになって帰国した。


『花と兵隊』は生きて敗戦を迎えても母国に帰らなかった元日本兵のドキュメンタリーだ。
撮ったのは元バックパッカーの20代の監督。


負け戦の敵地で、殺されず、収容所へも行かず、生き延びること。
二十歳そこそこの若者が、もう日本には帰らない、と決意すること。
それはどういうことか?
それは何を意味するのか? 
彼らはどうして生き延びたのか? 
彼ら元兵士はあえて語ろうとはしない。


僕はなんとなく想像することが出来る。
こうなのだろうな、と思っている。
本や映画やテレビを見て、そういうことだろうな、と勝手に推測することが出来る。


でも、本人が生きていて、語ってくれたものは全く別物だった。
当たり前かもしれないけど…。
映像は、生の人間の語る言葉は、衝撃的なほど力があった。


『花と兵隊』は七芸で18日までやってます。
上映は一日1回のみですけど。


残りの感想は後半に書きます。

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9時前に起床、寝坊の朝。
晴れ、今日は少し湿度が高い。
10時過ぎにジョギングに出るが、風がなくて暑い。
めげそうになるが、これまでさんざんサボってきたのだ。
ちったあ頑張ってみるか、という気概を見せる。
他人から見れば平日の遅い朝に好きで走ってるのだからロクなもんじゃない。
みんな働いているのだ。


Podcastを聞きながら走る。
眼鏡堂氏からも教えられた31日のTBS『アクセス』を聞く。
田中康夫が尼崎の選挙戦でいかなる妨害行為にあったのかを嗄れた声で話す。
http://podcast.tbsradio.jp/ac/files/actk20090831.mp3
脳性麻痺の数名の障害者とその車椅子を押すサングラスをかけた女性たちという謎の集団。
どこか外国の話を聞いているようだが、隣町での出来事だ。
小西克哉が19世紀のアメリカ南部の話を聞いているようだとコメントする。
誰の指図か、どの候補による妨害行為か、糸を辿れないように巧妙に隠されているのだろう。




…ここ数日にしては蒸し暑い。
午後から一人で映画を見に出かける。
十三の第七芸術劇場(略してナナゲイ)だ。
ドキュメンタリー映画『花と兵隊』(監督/撮影/編集 松林要樹)106分。
昨日、ナナゲイのHPでこの映画を知り、You-Tubeで予告編を見て、行こうと決めた。

     http://www.youtube.com/watch?v=ePkbZZeF42U
     


…映画としては割とゆるーい作りなのだが、いつのまにか引き込まれていた。
前半は全く緊迫感はない。でも、気がつくと心臓がドキドキしていた。
不思議な訴求力を持ったドキュメンタリーだった。


松林監督は30歳、10代のころからアジアを旅する筋金入りのバックパッカーだった。
バンコクに長期滞在している時、未帰還兵の噂を耳にする。
帰国して今村昌平のドキュメンタリー映画の学校に学び、この映画の撮影を始めた。


手法はいたってシンプルなもの。
噂を聞いた監督が元日本兵の住処を訪ねる。
会って話を聞く。
マイクを手にDVCAMで撮影する。
ついでに生活の様子や家族のインタビューも撮影する。
スタッフは自分と、おそらく通訳だけ。
アダルトビデオのように時に据え置きカメラと自分目線の手持ちカメラの2台を駆使する。
監督自身の質問(老人相手なのでデカい声だ)もそのまま編集で使っている。
撮影や編集は正直言って荒っぽい。
3年前からの撮影だからハイビジョンではない。
その分、映画館の大きなスクリーンだとアラが目立つ。
でも、力はある。
しだいに引き込まれる。


元日本兵は今や好々爺となり南国タイで暮らす。
ある者はビルマ国境のタイの農村、ある者はバンコック市街地。
穏やかなインタビューは聞き続けるうちに穏やかならざるものとなる。
老人たちが決して語りたがらない過去が浮かび上がる。
帰ろうと思えば帰れたんです。
軍隊である出来事が起こったんです。
あんな軍隊にはいられない。
命を賭けて軍を離れる。
そのとき、僕は二度と日本へ帰らないと決めたんです。
静かな笑顔に隠された“帰らない理由”は明らかにされない。
本当は言えないことがあるんです、と。

     



地獄の戦場だった。
そして、敵地で敗戦を迎えた兵隊には想像を絶する運命が待っていた。


軍を離脱した若き敗残兵は中国人になりすまし生き延びた。
ある者はカレン族とともに反政府軍に加わりビルマ政府軍と戦った。
悪名高き泰緬鉄道の建設に加わった兵は報復を恐れ逃亡した。
自らの手でシンガポールの華僑大虐殺を遂行した者は遺骨収集に生涯を賭けた。
1945年8月15日、20代前半の男たちにっとって運命の夏だった。


壮絶な人生。
一つの選択、一つの偶然が生死を分けた。
比喩ではなく事実。
手塚治虫の漫画『火の鳥』を思い浮かべた。


ビルマ戦線に日本陸軍は30万の兵を投入し19万が命を落とした。
ほとんどが召集令状で集められた若い兵だった。
6割が餓死病死だった。
補給線を無視した大本営の無謀な作戦。
インパールで、ガダルカナルで、ニューギニアで、レイテ沖で、満州で…。
それが日本という国の戦争のやり方だった。
『花と兵隊』に登場する未帰還兵たちはそういう戦争から生まれた。

 

チラシに森達也の感想が載っている。


 『終盤近くにタイトルの意味にやっと気づく。
 そしてまた同時に、「花」が老いた「兵隊」たちの妻だけではなく、
 違う意味を与えられていることにも気づく。
 そして見終えて気づく。
 この作品そのものが、戦後日本の暗喩であることを。』


映画のエンディングは秀逸だった。
冒頭で日本の桜への思いが語られ、終盤でサクラという幼子が登場する。
哀感あふれる締めくくり、静かに流れるギターソロの「夕焼け小焼け」が心に染みる。


松林監督は言う。
あの戦争は僕らにとって爺さんや婆さんのものだという感覚がある。
終戦を迎えた時も彼らは老人だったのでは、と思い違いをしてしまう。
でも、あの1945年8月、彼らは僕らと同じ10代20代の若者だった。
生き延びた人にとって、あれからの30代、40代はどんな人生だったのか? それが知りたかった。


3年に渡る取材の中で2人の未帰還兵が天寿を全うした。
元報道のA部さんのテーマでもある語り継ぐ戦争の記憶。
命の火が消えようとしている。


この映画は8月15日頃に戦争の記憶としてテレビで取り上げられていたようだ。
(恥ずかしながら全く知らなかった)
おそらく関西テレビの夕方ニュース、10分ほどの企画があった。

    http://www.youtube.com/watch?v=DXr-17i7KXw
    


NHKBS1でもこの映画の特集企画があったようだ。
(映像はきれいだけどちょっと重いです)
http://www.youtube.com/watch?v=7LHXI47U7yU
http://www.youtube.com/watch?v=ir99aW7AWDg


この特集で映画のおおよその輪郭は分かる。
でもテレビコードの自主規制が入っているから過激でシリアスなコメントは流れない。
出来れば最初から時間の流れを体感してあのエンディングを見て欲しい。