ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

09/9/4 映画『嗚呼満蒙開拓団』を観る。

4日連続の5キロジョギング、今日も蒸し暑い。
でも、限りなくゆっくりと1時間かけて走る。
Podcastの『キラ☆キラ』で異形の天才西寺郷太が秋にオススメの音楽を紹介。
ボズ・スキャッグス!
懐かしい名前が出てきた。
よくよく見ると変わった名前だと思う。
西寺郷太はToToのメンバーがサポートした『JoJo』の完成度を推す。
ボクにとってボズ・スキャッグスは『We are all alone』だ。(月並みだけど)
他にも『Slow Dancer』『Harbour Light』をよく聞いた。
僕にとっては80年代の人というイメージがあるが、ヒット曲はいずれも70年代だ。


名曲『We are all alone』はボズのものよりリタ・クーリッジのカバーが好きだ。
ボズはピアノ、リタはギター伴奏なのですね。


この日記のページで同時に再生してみる。
おお、夢のデュオ!

http://www.youtube.com/watch?v=NkZGAscEdLw

http://www.youtube.com/watch?v=nwLGT6S7WDE



学生時代に弾き語りで歌おうとするのだが高音が苦しい。
チューリップの『青春の影』と似ている気がする。
♪きみの こころに つづく ながい いっぽんみちは (苦じい!)


…今日も映画を1本観る。
『嗚呼 満蒙開拓団』@十三 第七芸術劇場。
開映12:15、昼イチで行くと行列が出来ている。
大部分が僕より年配の人ばかりだ。
今日が最終日だからだろうか。


一昨日観た『花と兵隊』同様、戦争の記憶を描いたドキュメンタリー。
ウィキペディアには満蒙開拓団(開拓民)はこう紹介されている。


 満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された、
 中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称である。
 1931年の満州事変以降に日本からの満州国への移民が本格化、
 1936年、広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、
 1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。
 同時に、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出された。
 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、
 1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。
 この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権、制海権を失った段階で停止した。


ところが、これが史上最悪の国策だった。
32万とも27万とも言われる開拓民のうち、生きて日本に帰れたのは約3分の1の11万人。
日本は敗戦、ソ連の参戦と中国人の憎悪にさらされた彼らはこの世の地獄を見る。
奪われ、殺され、犯され、自決を迫られ、何よりも日本軍は彼らを見捨て、真っ先に逃げた。


この『嗚呼 満蒙開拓団』は彼らの記録映画だ。
語る場所としてハルピン郊外の方正(ほうまさ)という街を選んでいる。
ここは関東軍の物資補給基地があったため、ソ連の参戦とともに逃げた開拓民が集中した。
だが、数千人の日本人が無残な死を遂げた。
戦後、周恩来の支援で「日本人公墓」が建てられた街だ。


当事者のインタビューが続く。
地獄の惨状があぶり出される。
生々しく。
ここでも『花と兵隊』同様、知識として知っているのとは別物だということを痛感。
映像の力、音の力の大きさを知る。


この映画を撮ったのは83歳のおばあちゃん監督。
ナレーションも担当している。
羽田澄子という岩波映画の人で、元々編集マンとして入社したのだという。
大連出身、だが満州の国境地帯で起こった出来事を知らなかったという。
写真を見ると凛として80代とは思えないほど若々しい。
若い頃はおそらく美人だっただろう。
詩人の茨木のりこを思い出した。


     


満蒙開拓団は日本で生活苦にあえいでいた人々だ。
開拓団の家族の一人一人になったことを想像してみる。
若い父親と母親、幼い子供たち、すでに老人だった両親。
彼らが入植したのは関東軍が中国人から安値で買い叩き追放した土地だった。
1945年、入植者家族すべてから成年男子が関東軍に『根こそぎ動員』される。
残ったのは女と子供と年寄り。
そこにソ連参戦、敗戦、悲惨な逃避行が始まる。
去年、松江の老舗バー『山小舎』へ行った時、先代のオーナーと話をした。
オーナーは奉天(今の瀋陽)の生まれで敗戦もそこで迎えた。
当時満州の奥地から奉天まで逃げ延びてきた人を見たという。
男なのか女なのかわからないくらいにボロボロになって見てられなかったと言う。
なぜ、彼らがそんな目に遭わなければならないのか。


映画を見て驚いたのは冒頭に登場するおばあちゃんの話。
山梨出身の彼女の一家が満州に渡ったのは1945年の5月なのだ。
敗戦の3ヶ月前だ。
町村ぐるみで満州行きを勧誘したのだと言う。
5月にはドイツは降伏しているのだ。
(ソ連軍の主力は東部戦線へ向かっている)
幼かった彼女は、いや両親でさえも何も知らなかった。
いや、日本人で知ってる人は少なかったのだろうな。
危ないよ、と誰かに言って欲しかったと彼女は言う。
別便で送った荷物が満州に到着したのは8月だった。
荷物をほどくことなくソ連参戦、村は無数の中国人に囲まれていたと言う。
両親や兄弟は満州で死んだが彼女は中国人に育てられて帰国を果たした。

すすり泣きが聞こえる。
60人ほどの観客の中には満州の悲劇を体験した人もいたのだろう。

去年、『あの戦争から遠くはなれて』を読んだ。
中国残留孤児の娘が書いた渾身のノンフィクションだった。
そこにも書かれていたこと。


日本政府の非道さは当然責められるべきだ。
もっとも悲しいのは何か?
この満蒙開拓団の悲劇を、今の日本人の大部分が知らないことだ、と書いている。
80年代、中国残量孤児が続々と帰国を果たした頃、僕は知らなかった。
彼らが何者なのか、を。
みすぼらしい地味な身なりの年寄りで、この人たち本当に日本人なの?みたいな見方をしていたのだと思う。
彼ら彼女らは今でも偏見にさらされている。



…YTVに顔を出す。
石川遼の優勝特番をDVD化すると言う。
仕事がまたひとつ増えた。


早めに帰宅し、成川内科クリニックへ行く。
気になることがあって、大事をとって大腸カメラ検査をすることを決める。
血圧、血糖、コレステロールは安定、問題なし。


iMovieやiDVDの映像作成ソフトをいじっていたら夜が更ける。