ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

2010/11/28 キダ・タローとダイアン・レイン

昨日の日記、なんだか写真ばっかりだな、少しは文章を書こう。
ワイドショーのメインネタは北朝鮮砲撃から海老蔵にチェンジした。
市川海老蔵、エースで4番、大スターの足元はかなり脆弱だったんだな。
僕の個人的な願いを言えば、舞台で暴れるのだけを見たい。
夜の街で暴れたのか暴れなかったのかを知りたいとは思わない。
丼さんが書いてたように世間の人は舞台の海老蔵よりテレビ、週刊誌の海老蔵に興味がある。
でも、舞台に上がれないのは困ったもんです。


…5キロジョッグでPodcastを聞く。
文化放送『大竹ラジオ』(僕だけの略称)でキダ・タローとのトークを聞く。
改めてキダ・タローの凄さを感じた。


トークが面白い。
突っ込まれての自虐ネタだけど鉄板。
79歳!
普通、79歳でこのテンポの会話は出来ない。
僕なんか53歳だけど会話に乗り遅れボケ遅れ突っ込み遅れの自覚症状が出ている。
(最近は入れ歯のせいで極端に言葉が不明瞭)
それに比べて79歳のこの反射神経は驚異だ。
Podcastで聞いてみて下さい。
http://www.joqr.co.jp/podcast_qr/main/main101124.mp3


何の画像がよくわかりませんが面白い。 


坪内祐三に大阪おもい」というコラム集がある。
その中に「キダ・タローで笑える謎」というコラムがある。
著者は東京出身で東京育ち、奥さんは関西人であるらしい。
大阪が嫌いではない坪内氏は奥さんと文化や感覚のギャップを感じたことは殆ど無い。
しかし「キダ・タロー」という名前だけでくすっと笑う奥さんの感覚だけはわからない。


 だけど、どこが面白いの?
 と尋ねたら。「文ちゃん」(奥様のこと)は“浪花のモーツァルト”ことキダ・タローの
 作曲したCMソングを、たて続けに数曲、鼻歌で歌ってくれた。
 たしかにそのいくつかは、関東人である私も耳にしたことがあるけれど、
 でも、どこが面白いの?
 私にとってキダ・タローは、例えば、オキ・シローと認知度が同じだ。
 しかし、関西人にとっては全然違うらしい。
 しかも、その名を耳にするだけで笑えるらしい。
 大いなる謎である。           
           (坪内祐三「大阪おもい」より)


註:ちなみにオキ・シローはお酒を巡る洒落たエッセイを書く人として僕は認知している。
  どちらかといえばキダ・タローとは対語みたいな認識です。


その名を耳にするだけで笑える というのは真実だ。
試しに生粋の大阪人であるヒロに、「キダ・タロー!」と言うと、
「なんやのん?それ キダ・タローがどうしたん? 浪花のモーツァルトやろ、
とっれとれぴっちぴちかにりょうり〜」と歌いながら顔は笑っていた。


先ずあの風貌、ビジュアルが来る。
同時にすべてカタカナの字面が来て、
浪花の…というキャッチフレーズが来て、
それは ♪とれとれ びちぴち かにりょうり とか ♪たんたんたーよし いくよりたよし
いう意味不明のサウンドが耳に来る。
笑わずにはいられない。

ラジオのトークで当のキダ・タローが俳優の高橋英樹の言葉を紹介する。
高橋さんがあるドラマの収録前に台詞を全然憶えてないことに気がつく。
スタジオへ行くタクシーの中で言った言葉。
「大丈夫、昨日までやってこれたから」
徹底した楽観主義、昨日までなんとかなったから明日もなんとかなるだろう。
キダ・タローはこの言葉で勇気づけられたそうである。


この楽観の裏には“寛容”がある。
現代社会が失いつつある日本人の美徳である。
藤島大がコラムに書いていた。
“寛容”
あの怪物ロムーが来日したとき、ラグビーに大事なものはと聞かれて答えた言葉。
3年前の日記にそのコラムを抜粋している。


 『寛容であること』 
 この号の座談会におけるジョナ・ロムーの一言が、
 どうにも脳みその内側に貼り付いたままだ。
 念のためにロムーとは何者かをおさらいすると、
 トンガの血を引くオールブラックスの元WTB、
 13年前のワールドカップ準決勝で、
 イングランドのタックルをおそるべきパワーで吹っ飛ばし、
 ジャーナリズムは踏み潰される白のジャージィを「カーペット」と書いた。
 サントリーのグラウンド。かつて怪物(フリーク)とも称された人物は、
 いかにもアイランダー風の詰まった発音で静かに述べた。
 「他者を理解すること、他者に寛容であることを学べるのです。」
 ラグビーの美徳を説いて、そこに「寛容」という言葉はあった。
 そいうえば、昨今のラグビー界には、万事に寛容の精神が欠けているなあ、と、
 我が身を含め、しみじみ考えさせられるのだった。
 なんとなく、ささくれだっている。
 あるいは教条的に厳格。
 どこか許容の幅が狭い。
 ロムーの語る内容に沿えば「異なる立場への想像力」の欠如だろうか。
 「弱い立場への…」と言い換えてもよい。  
             (ラグビーマガジン09/1月号より) 


おおらかで度量があって心の広かったところがぜんぶみみっちくてせちがらくて
狭量で、視野が狭くなっていく。
いいかげんだったところが、厳格になった という印象がないのはなぜだ?
寛容 という言葉で英語ではなんと言うのだろう?
このコラム、ああ、そうかと思った。


寛容でなくなるのはなぜか。
違う立場の者、あるいは弱い立場の者、を認めることが寛容。
世の中が不況で余裕がなくなり人の気持ちがギスギスしてくると他者に辛く当たる。
余裕がないから認められない。
コラムではラグビー界での例をいくつか挙げている。
「あやまち」「違い」「ルール」それぞれに例を挙げている。
弱い者、弱い者がそれを理由にしない強さを思う。


なぜ人は寛容でなくなったか。 
寛容は人間の美徳であるならこうもいえよう。
人間の世界が野生動物の世界のルールと同じになって久しいからだ。
その結果の世界不況でもあるのだから。
違う原理、イデオロギーを適用していたら違った結末。


“寛容”
読売新聞の新春のコラムで角田光代も書いていた。
これも去年の日記に一部を書き写している。


 どうも時代が、非寛容になってきているように思えてならない。
 いちばんそれを感じるのが、朝の通勤電車である。
 みんな異様に急ぎ、急ぎすぎて怒っている。
 改札で引っかかろうものなら、容赦のない舌打ちが幾重にも重なって背後から聞こえる。
 エスカレーターでもたついていると押しのけられる。
 娘とともに通勤する会社員が、動作の遅い老婦人に苛立ち、
 「あのばあさんがぐずぐずしてるから一本のがしたね」
 と小学生の娘に言っているのを聞いたときは、誇張ではなく背筋が冷たくなった。


 非寛容は連鎖する。
 人は非寛容に出合うと、みずからも非寛容で武装する。
 いたずらに傷つきたくないからだ。
 結果、みんな怒っているように見える。
 それでいい気分になることなんかないとわかっていながら。
 でも、私たちは何をそんなに急いでいるのだろう?
 人を押しのけて、舌打ちをして、我先にどこにいくのだろう?
 そこに一番乗りして、いったいどんないいことがあるんだろう?
 牛のごとく、他者から見て、非寛容よりは寛容を感じとって欲しいと私は思う。


人は非寛容に出合うと、みずからも非寛容で武装する。
警告として心に刻みたい。


10年くらい前から日本がヒステリックになっている。
一年中バッシングの嵐が吹き荒れている。
出来るだけバッシングに与したくないと思う。


キダ・タローの話を書いていたら“寛容”に飛んで何が言いたいかよく分からない文章になった。
キダ・タローと楽観と寛容のどこがどうつながっているのか?
ここは“寛容”の心をもって見逃して欲しい。


しかし、ここに書いてことはかつて日記に書いたことばかり。
キダ・タローの話も数年に1度は登場する。
ネタがループする老化現象。
加えて話が長い老化現象。
これも寛容の心で見守ってくれたら幸いです。


キダタロー讃歌の最後に氏の作った名曲をひとつ。
北原謙二『ふるさとのはなしをしよう』
北原謙二と守屋浩と橋幸夫の歌は僕の幼少時代の愛唱歌でした。
カラオケに行く機会があったら次はこれを歌うぞ。
まだ髪の黒いキダ氏も登場しています。


…帰宅してDVD『最後の初恋』を観る。
9月にTSUTAYA DISCUS で借りたままになっていた。
ご心配なく、延滞料はかからない。
けど、今借りているのを返さないと次が送られてこない仕組み。
ネットで注文する。
翌日、メール便で送られてきて、返すときも同じ封筒に入れて投函する。
月額980円で4枚借りられる。
延滞料はかからないが返さない限り月額980円の引き落としは延々と続く。
今回のようにずっと借りっぱなしだと結果的には高くつく。


『最後の初恋』
原題はNights in Rodanthe、Rodantheは地名。
主演はダイアン・レインとリチャード・ギア。


夫の浮気が原因で離婚したダイアン・レインは二人の子供の子育てに忙殺される毎日。
週末を過ごす夫を過ごす娘と息子を送り出し、友人の経営する海辺の小さなホテルを
5日間だけ切り盛りするため田舎町ロダンテにやって来た。
季節外れのリゾートに客はたった1人、トラブルを抱えた外科医のリチャード・ギアだった。
折しもハリケーン襲来…!


物語は…舶来の「黄昏流星群」です。
舞台設定とキャスティングで俗っぽくなるのを逃れている。
『マディソン郡の橋』に近いかも知れない。
でも、そんなことはどうでもいい。
やっぱり、ダイアン・レインです。
彼女見たさに借りたのだった。
ダイアン・レインの魅力に尽きます。


この映画の公開時で43歳だった。
正直、彼女は実際の年齢よりも老けて見える。
日本人の目にはそう映るのだろうか。
でも、魅力は損なわれることはない。
自然なのだ。
無理してない。
目尻のしわでさえもチャーミング。


こんなおばさんならウェルカムだなあ、と思って、ふと気がつく。
自分がダイアン・レインより年上だったのを忘れてた。
客観像は中年晩期、自画像は老けた青年。
困ったもんだ。


外国の宿に女主人と二人っきり?
僕にも経験あるぞ、こんなシチュエーション。
アイルランドのゴールウェイの民宿。
あ、年老いたおばあちゃんもいたなあ。
夜中、二人でキッチンで缶ビールを飲んだ。
残念なことに何事も起こらなかったけど。
波風の立たない人生。


映画の舞台はノースカロライナ州のアウトバンクス。
長大な砂州、規模の大きな天橋立みたいな地形です。
マサチューセッツにあるケープコッドとも似ている。
グーグルマップで探す。
Rodantheはこの砂州にある町。