ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

2011/5/9 マヒンとスッコン

快晴、見事な五月晴れ、でも景色は黄砂にけむっている。
一人で起きて、すぐに蒲団を片付けて、朝風呂に入って、トマトジュースを飲む。
今日も大ネタはありません。
日常が小ネタの集積で構成されることは平和である証拠です。
子供の頃、買い物について行くと肉屋でハムの細切れを買ってもらうのが好きだった。
料理する前におやつ替わりにちょっともらうのだ。
今日も細切れで行こう!


朝食はコーヒーとイングリッシュ・マフィン。
CMで小林聡美が美味しそうな音をさせて食べてたパスコのマフィンです。

いいまつがいネタではないですが、義母(ばあばあ84歳)は
マフィンをマヒン、スコーンをスッコンと言います。
マフィン&スコーン、なんだか70年代の英国フォークデュオのようです。
マヒンとスッコン、戦前のドタバタ喜劇映画のコメディアンのようです。


今日から短パン(自転車用)で走る。
新しく買ったCATEYEサイクルコンピューターを昨日取り付けたばかりのVIGORE。
時間とお金に余裕があればパーツをシルバーに、バーテープを白に替えたいなあ。


サイクルコンピュータによると今朝の走行距離は16.14キロ、走行時間は49分03秒、
平均速度は19.7キロ/時、最高時速は31.7キロ/時でした。



香櫨園浜のビーチウォークのニセアカシアが開花。
正確には2日前から咲いている。2011年の開花日は5月7日でした。
海辺にアカシアの甘い香りが漂う。
熊ん蜂が蜜をねらって飛び回る。


そろそろ奈良の葛城山ではツツジが咲き始めるだろう。
葛城山(かつらぎさん)のツツジを知ってますか?
吉野山の桜は「ひとめ千本」と言いますが葛城山のツツジは「ひとめ百万本」と言います。
宣伝文句は時代とともにエスカレートしてくものですが、百万本はかなり壮観です。
葛城山へは2005年5月11日(再録しとこ)に行った。
今年は季節の進行が少し遅いからそろそろ咲き始めるのかな。


…『これが男の痩せ方だ!』で紹介してあったロープ体操をYou-Tubeでセルフレッスンする。
ビデオを何度見てやってみても楽チンなので、これでいいのか?と心配していたが…。
こんな記述があった。


 しかしながら、この運動法は「仕事量の自覚性」が非常に低く、
 「運動している」という実感やその場での疲労感があまりありません。
 汗はかきますが滝のように流れることはなく、じんわり発汗します。
 でもそれが、筋肉系をアウター、インナーともに使う運動法であり
 全身に空気をめぐらせカロリーを燃焼させて、「内側から火照る」状態にします。
 そして運動中にはなかった疲労は、後ほど「眠気」として感じられます。
 エネルギーのよい使い方をしている証拠です。


そうなのか。
ここはだまされたと思って最低一ヶ月は続けてみよう。
http://blog.livedoor.jp/ghenki/archives/cat_66163.html



…いつもより朝食を早めに食べたので出勤前に昼飯となる。
久々に駅前2ビルの地下『いわむら』でランチを食べる。
地鶏のカツレツ ディアブル風、ライスが多かったので1/3残す。
最初に少なめに、と言っておくべきなのになかなか言えないものです。


ニュースデスク、月曜日で試合はないのに翌日の段取り仕事でバタバタ過ごす。
早めにデスクを閉局、駅前3ビル地下『竹生庵』で太打ちのざる蕎麦を食べる。
ソフマップiPad2をさわってみる。
入荷待ちだったので事なきを得たが衝動買いしそうになった。


帰宅、なせだかぐったり疲れている。
洗濯物をたたみ、湯船を洗う。
2日入っただけなのに垢で生臭い臭いがする。
オレは半漁人か、と一人で突っ込む。
せっかくの気ままな一人暮らしなのにすでにグッタリと疲れている。
11時前に蒲団敷いてVIGOREと一緒に寝ちゃいました。



菅直人首相の浜岡原子力発電所の停止要請について内田樹がブログに書いている。
僕がかつての自民党政権、今はそれを受け継いだ現政権の原発推進政策に疑問を持ち、
ここにきて段階的に全廃すべきだと思うに至る理由を明解に説明してくれている。
推進したい人たちが科学的根拠としていろんなデータを出してくる。
たとえば石炭採掘での死者と原発での死者を比較したりする。
議論のための議論、すべて不可避な道へ追い込むための相対論、比較論でしかない。
このブログに書かれている疑念に応えられないではないか。
浜岡原発停止について」 http://blog.tatsuru.com/2011/05/08_1052.php
例によって転載自由なので僕のブログに僕の主張みたいに載せてしまおう。


  浜岡原発の運転の可否についての議論はもちろん専門的な機関で
  行っているのだろうが、結論はわかっている。
  「安全性に問題はない」である。
  でも、東海大地震が起きて、放射性物質が漏出するような事態になったら、
  政府機関も中電の経営者も原子力工学の専門家たちも、
  口を揃えて「想定外の事態だった」と言うに決まっている。


  福島に続いて静岡で原発事故が起きたら、もう「日本というシステム」に対する
  国際社会の信用は回復不能のレベルにまで下がるであろう。  
  メーカーへの送電や、株主への責任や、それは首都圏が福島・静岡の事故に
  挟撃された場合に日本が失うものとは比較にならない。
  だから、菅首相の判断を私は支持する。 


  官僚たちはさぞやご不満であろうし、撤回させるために、
  いま全力を尽くしているところだとは思うけれど、
  民意が「反原発」に完全に傾いた今となっては、
  もう原発推進に舵を切ることはできないだろう。
  それにしても、高い確率で大地震が起こる地盤の上に
  原発を建てた人間はいったい何を考えていたのか。
  何も考えていなかったと私は思う。


  「2000年問題」というのがあった。
  2000年になるとコンピュータが誤作動を起こすかもしれない。
  どのような事故が起きるか想像もつかない…と1999年の12月31日には
  みんなどきどきしていた(幸いたいしたことは起こらなかった)。
  なぜこんな問題が起きたかというと、コンピュータの設計をしていた人たちが
  「そのうち紀元2000年が来る」ということを考えていなかったからである
  もちろん、彼らだって「そのうち紀元2000年が来る」ということは
  高い確率で想定していたはずである。
  しかし、そのことを考えに入れると、コンピュータの設計を変えないといけない。
  年号表示を2桁増やすことで失われるメモリー量が「もったいなかった」ので、
  「2000年は、2000年までは、来ない」ということにして
  (これは命題としては正しい)、考えるのを止めたのである。 


  それと同じである。
  大地震は、大地震が来るまでは、来ない。
  命題としては、正しい。
  だが、そこから「大地震が来るまでは、大地震のことは考えないでもよい」
  という実践的命題を導くことはできない。
  こういう発想をする人を私が好まないのは、もちろん「無責任」ということもあるけれど、  
  それ以上に「どうせ来るなら、そのときは破局的な事態になった方がいい」
  という無意識的な願望を抑制できなくなるからである。


  「姉歯事件」をご記憶だろうか
   構造計算をごまかして、耐震性の弱い建築物をどんどん建てた人たちがいた。
   彼らが単にコストカットして金儲けをしたかった、
  というのならそれほど罪はない(あるけど)。
   でも、彼らは地震が起きて、適正な構造計算をした建物だけが残り、
  虚偽の構造計算をした建物だけが選択的に倒壊するという事態を怖れた。
  その場合にのみ彼らの悪事は満天下に明らかになるからである。
  それゆえ、彼らはこう願った。
  もし地震が起きるとしたら、中途半端な規模のものではなく、
  すべての建物が倒壊するようなものでありますように、と
  彼らの犯罪は「自分たちの悪事が露見しないためには、
  すべての人が破局的な目に遭うことが必要である」というかたちで構造化されていた。
 

  (中略)


  私はそう思う。
  安全に対する手立てを講ずることを怠る人間は、
  自分が「なすべきことを怠っている」ということを自覚している。
  だから、必ず、「どうせ何かが起きるなら、安全について手立てを講じた人間も、
  手立てを講じなかった人間も、等しく亡びるような災厄が訪れますように」
  と祈るようになる。
  それはその人と属人的な資質とは関係がない。
  夏休みの宿題を終えないうちに8月31日を迎えた子どもが、
  「学校が火事になればいい」と祈るのと同じである。
  別にそう祈る子どもが格別に邪悪なわけではない。
  宿題をしなかった子どもは必ずそう祈るようになる。
  人間の無意識的な祈りと呪いの力を過少評価してはならない。
  だから、浜岡原発を停止することに決めたのはよいことだと私は思う。


  繰り返しいうように、私は原子力テクノロジーに対しては何の遺恨もない。
  テクノロジーは価値中立的なものである。
  テクノロジーに良いも悪いもない。
  でも、愚鈍で邪悪な人間たちに原子力テクノロジーの操作を委ねることには反対する。
  そして、「愚鈍で邪悪な人間たち」というのは
  端的に「人間というもの」と言うのとほとんど同義なのである。


                   (内田樹の研究室 2011/5/8 より)



僕は内田樹信者なのですべからくごもっともだと思うが、ドキっとしたのはこの一文。


  人間の無意識的な祈りと呪いの力を過少評価してはならない。
  だから、浜岡原発を停止することに決めたのはよいことだと私は思う。



もし、と考えてしまう。
小泉政権だったらそうしただろうか、と。
もし、9.11の総理が管直人だったら。
もし、3.11の総理が小泉純一郎だったら。
今日、中部電力が停止要請を受け入れた。
刺激しないようにその決定をしずかに歓迎したい。