ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

2011/6/17 道草人生

雨の一日、傘を差して阪神香櫨園まで歩く。
途中の公園にある山梔子(くちなし)の生け垣。
そろそろ咲いてもおかしくないが、まだ蕾が青々として固い。


図書館に寄る。
文楽と宝塚の本を借りる。
竹本住大夫『なほになほなほ 〜私の履歴書〜 』(日本経済新聞社
早稲田大学宝塚歌劇を愛する会OG『宝塚 非公式ハンドブック』(講談社
文楽に宝塚、また道草してるなあ。
道草人生、何も極めて来られなかった悔恨がちくちくと胸を射す。
でも、なんで今さらそんな思いにとらわれるのだろう。


『なほになほなほ』は住大夫理事長(僕が加入している保険組合の)自伝です。
前半は日経新聞の「私の履歴書」、後半は桂米朝片岡仁左衛門、中村吉衛門らとの対談です。
前にも借りたけど読めずに返したもの。
今回はいっきに読みました。
色街である北新地で育った破天荒な幼少時代。(実家はなんと曾根崎お初天神の裏手)
山城少掾(やましろのしょうじょう)の弟子時代、古住大夫のころのエピソードが爆笑もの。
とんでもないポカをしでかした住大夫を兄弟子の越路大夫が、
真っ青になって「お前はしばらく隠れとき」とかばってくれる。
その二人が人間国宝になるとは…。
NHKスペシャル人間国宝ふたり』に印象的なシーンがある。
引退した兄弟子越路大夫に78歳の住大夫が稽古してもらいにいく。
本を読んでこのシーンを見返すと涙が出てくる。
(埋め込み不可のためYou-Tubeでご覧下さい)


戦後、文楽が三和会(組合)と因会(松竹)に分裂した。
住大夫師匠は父、先代の住大夫や兄弟子の越路大夫、蓑助らとともに三和会だった。
慢性の人手不足、特に3人で一体を使う人形遣いが足りない。
大夫の語りが済むと住大夫師匠も黒子になって左手や足を使っていたとか。
この人の語りは人形が使いやすい、この人の三味線は使いにくい、というのが分かったと言う。


三和会当時の写真、雰囲気あっていいですね。
左から越路大夫、父(六世住大夫)、住大夫師匠、まるで俳優か文学者のよう。


結婚してからも祇園で遊んで朝帰りしてた師匠。


 かけ出しの私にネクタイなんぞ買われしまへん。
 ある時、文楽好きの芸者はんに二本いただいたんです。
 さっそく一本締めて帰りました、「これ祇園の芸者にもろてん」と女房に言ったのが
 誤りやったんですな。
 よろしおますね、というかと思えば「そんなにうれしそうにしてからに」と
 きっとにらみます。
 怒る目元は薄紅梅、でして、裁縫バサミに手が伸びるが早いか胸に下げた一本をばっさり。
 もう一本は数日後、哀れ買い物袋の手提げに変身してました。
 女房言うには「あんた、もてると思うたら大きな間違いや、もてあそばれてまんねんで」
 その通りでございます。
 おかげさまで、このごろは「え、もう帰ってきはったんかいな」と
 女房があきれるほどおとなしうなりました。
                       (『なほになほなほ』96頁)


三浦しをん『仏果を得ず』に登場する女好きの人間国宝の銀大夫。
本を読んでそのモデルが明らかになりました。


悪声を自認する住大夫師匠、こんなこと書いてます。


 声は悪うても、口が大きいのが幸いしました。
 この点は親に感謝しなければなりません。
 声の通りがよく、言葉がはっきりしていることは大夫にとって大きな強みです。
 越路大夫兄さんは「君はええ口してるなあ」と口ばかりほめてくれはりました。
                       (『なほになほなほ』146頁)



戦後、文楽が初めて海外公演をした。
場所はアメリカのシアトル。
大夫は“シンガー”と紹介されたとか。


大の野球ファンの住大夫師匠、近畿大学時代は控えのキャッチャーだったそうです。
ひいきの球団は阪急ブレーブス
阪急に限らずたいていの選手の出身地、出身校は頭に入ってたとか。
 

住大夫師匠が人間国宝になった時、奈良薬師寺の高田管主が贈った歌。
  「おくふかき かたりのわざを ただただに 
   みがききたりて 今日のいさほし なほになほなほ」
これが本の題名になったようです。


読めば読むほど住大夫さんの浄瑠璃が聞きたくなる。
人間国宝には失礼ですが、いとおしくなってきます。
『なほになほなほ〜私の履歴書〜』、お勧めです。