2012/3/16 海へ続く階段

また寝坊、朝の『カーネーション』を見逃す。
ネルネルとウエットマスクが功を奏して目覚めは悪くない。
咳の原因はつまるところ鼻づまり(鼻炎)と乾燥なのだ。
ヒロも昨日から鼻がグズグズするという。
熱はない。
季節の変わり目のせい? それとも鼻炎はウイルス性なのだろうか。


30分ほど走る。
このところ芦屋浜ばかりだったので今日は夙川沿い。
ルートはいったん香櫨園浜へ出て夙川河口から遡る。
住宅地から海辺へ出るにはコンクリート造りの階段を使う。
昇ると海が見える。
この古い階段が好きだ。
化粧タイルなどで着飾っていない無造作なところがいい。


梅は今が盛りだ。
まだ蕾もある。
桜の開花予想は3月末だから梅桜競演もあるのか?
ことしは沈丁花の香りがしない。
たまたま出会うことが少ないのだろうけど。
何ヶ所か植えられている場所を知ってるので明日行ってみるか。


ヒロが雪柳がちらほら咲いてるよと言う。
図書館の前の生け垣に小さな花を咲かせていた。
花も悪くないが新葉の緑の美しいこと。
明日は彼岸の入り。
もう緑の季節はそこまで来ている。
梅、雪柳、桜、山吹、春のカルテット競演もあるかも。


修理中の葭原橋、桜の開花に間に合うだろうか。
『ランゲルハンス島の午後』の文庫本の表紙をあしらったこんな看板が出ていた。
表紙は確か安西水丸だ。

ランゲルハンス島の午後 (新潮文庫)

ランゲルハンス島の午後 (新潮文庫)



…またネットで訃報にふれる。
吉本隆明 享年87。
よしもとたかあき。
たれが呼んだかヨシモトリュウメイ。
思えばカイコーケンもそうだった。


吉本隆明高橋和巳埴谷雄高羽仁五郎ポール・ニザン
19歳の春、大学の寮の同室だった先輩の本棚に並んでいた背表紙の名前たち。
高橋和巳の小説とか読んだ?」と問われたが題名のひとつも知らなかった。
本棚にあった中からとりあえず読みやすそうな高野悦子二十歳の原点』を手に取った。


Twitterやブログに追悼エントリーが次々とアップされていく。
大多数の人が読んだことないけどとか、数ページで放り出したとか、
結局わかりませんでした、という告白から追悼を始めている。
理解できなくとも大きさは何となく把握しているという存在。
吉本隆明はあの時代を思い返すときに欠かせない背景であり小道具である。

僕も著作を買った記憶はないし、借りて読み通すこともなかった。
数年前に後藤正治さんが氏を取材した人物ノンフィクションを読んだ。


読後、8月15日の日記に僕はこう書いている。


   日本が連合国に降伏した日。
   この戦争のことをいろいろと読み聞くにつけ思うこと。
   この8月15日は僕の運命を、今生きている僕らの有り様を決めた日でもあったのだ。
   たまたま読んだばかりの吉本隆明を描いたルポ(後藤正治 著)にこうある。
   1944年、当時19歳だった吉本は山形県の米沢高等学校で学んでいた。
   戦火激しく学徒動員を間近に控え、下宿に仲間が集まった。
   将来、こういうものになりたいと思うものがあれば、と披露しあった。
   仲間たちは皆お互い20歳まで生きることはないだろうと考えていたという。
   そんな時代があったのだ。
   吉本はその時、こう答えた。


    頭髪を無造作に刈った壮年の男が、背広を着て、両手をポケットに突っ込んだまま、
    都会の街路樹の下をうつむいて歩んでいく。
    俺は若しなれるなら、そんな者になりたい。
                         (吉本隆明『初期ノート』より)


  どうせぼくらは20歳まで生きられない と吉本ら19歳の若者が思っていた。
  そして、出てきた答えが、“うつむいて歩く壮年” だ。
  戦後を代表する思想家らしい、と言えばそうなのだが…。
  1945年8月15日に間に合わず、うつむく壮年にもなれなかった若者が数多くいただろう。
  僕は、いま壮年で、街路樹の下をうつむいて歩くことが出来る。
  晩秋、大阪の街路樹が色づく頃、ポケットに手を突っ込んでうつむいて歩いてみよう。
  吉本隆明と戦争のことを思い浮かべて。
                            (2009/8/15)


吉本隆明はそういう時代に生まれた人であった。
20歳まで生きられないと思っていた青年が87まで生きた。


僕のには食べ物に関する吉本隆明の言葉が記憶に残っている。
あるインタビュー記事だったと思う。


 「でも、誰にも何も言わずに食べるという快楽がある。
  僕は宴会とか行ってもほとんど食事に手をつけずに、しゃべってばかりいる。
  食うんだったら、一人で内緒で食べるのが好きなんですね。
  いまも盗み食いが好きだし。」


知の巨人に強いシンパシーを感じるようになった。


こればかりでは申し訳ないので、これも又読みだが名文をひとつ。
夏目房之介が『本デアル』で触れていた。


  沢山の偶然にないまぜられた必然が、きみを今の境涯につれていったとしたら、
  きみはそこを逃れられないし、また逃れる必要もないのだ。
  わたしたちはそのようにできあがっている。それが、わたしたちのたたかう場所である。  
             (吉本隆明全著作集十三『政治思想評論集』八九頁より)


僕はばななさんのエッセイが好きです。
ご冥福を祈ります。



…午後から阪神電車で梅田へ出る。
阪急百貨店の地下食品売り場で気仙沼斉吉商店の「金のさんま」を買う。
https://twitter.com/#!/kazuesaitou/status/180302163430490113/photo/1
行列が出来ていて並ぶと整理券を渡された。
ひとり3パック限定なのだ。
美人専務の和枝さんとも言葉を交わせました。
ほんの数秒でしたが。
http://www.saikichi-pro.jp/


あの津波から秘伝のタレを救出した斉吉商店の物語はこちらから。

気仙沼に消えた姉を追って

気仙沼に消えた姉を追って


モンベルで買い物。
350mlのペットボトルカバーとヒロが欲しがっていたTシャツ購入。
モンベルへ行くと山へ行きたくなる。


山長梅田で石垣から帰省中のミネーロと立ち飲み。
すっかりハルサー(農民)になったミネーロは見事な野生の銀髪狼となっていた。
この4月で農民を失職するがまだ1年は島で暮らすつもりとのこと。
彼を主人公にしたショートムービーを撮りたいのだと申し出る。
男五十にして南の島暮らし、その日常をクリップしたいのだ。
なんで?
楽しそうだから、です。
山長で新酒の「帰山にごり」を飲む。
トロリしゅわー、僕にとってこれが早春の味。



…帰宅後、NHKオンデマンドの「見逃し番組見放題パック」で番組を3本見る。
3/1 Eテレ放送の『グラン・ジュテ 〜私が跳んだ日〜 』
http://www.nhk.or.jp/kurashi/grand/backnumber/120301.html
http://www.nhk.or.jp/kurashi/grand/plus/index.html
ナレーションが遠藤憲一だったので思わず見る。
この番組のテイスト好きです。
教育でこういう番組してるんだね。
去年の6月には小島慶子の回もあった。
http://www.nhk.or.jp/kurashi/grand/backnumber/110602.html



続いてBSプレミアムで3/2OA『熱中人』の「くせ字シャーマン奈津子」
これは最高に面白かった。
http://www.nhk.or.jp/n-stadium/76ple/index.html
くせ字愛好家、くせ字研究家、くせ字ものまね、くせ字占い家。
奈津子さんは街歩きしながら「くせ字」ハンティング。
コレクションして『日本の美しいくせ字100選』なるスクラップを作った。
愛すべき“くせ字フェチ”です。
この人の語り口や声がまたいいんです。
ナレーションは夏木マリ、ここでは湯婆婆風です。


続いて、NHKスペシャル『調査報告 原発マネー〜“3兆円”は地域をどう変えたのか』
http://www.nhk.or.jp/special/onair/120308.html
去年読んだ本『津波原発』(佐野眞一)に書かれていたその後が克明に報告されている。
あの本を読んでの感想がまだ書けてはいないが、痛切に思ったのは、
国や電力会社に獲物となったら、その時点で自治体は逃れようもないということ。
そのやり口は実に狡猾で、巧妙に考え抜かれた定石通り完ぺきに“詰み”となり投了する。
貧しい土地であるがゆえに狙われた。
禁断のエサだった。
もう原発なしでは生きていけない身体になる。


どうしてこうなるのだろう?
高速道路や新幹線、工業団地と原発の大きな違いはどこにあるのだろう?
炭鉱節のような原発節が生まれなかった、と佐野眞一が書いていた。
その理由と根は同じなのだ。


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《BACK TO 2011》
2011/3/16 いとしい面影の沈丁花  http://d.hatena.ne.jp/shioshiohida/20110317/1300318644


夜はA部さんを囲む会でもつ鍋で飲む。
こんな時節でもお店は混んでて活気があり、それが嬉しい。
阪神大震災の時に神戸支局長だったA部氏の体験談を聞く。
あの惨状だった三宮で飲み屋が再開した時の感動を聞く。
神戸の時、仮設住宅に入居が始まったのは5月くらいだったという。
それまで4ヶ月くらいは避難所生活だったということか。
A部氏はその後長期間に渡り仮設住宅の独居老人の取材を続けた。
高齢者は自分の住んでいた場所から遠く離れたところへ住ませてはダメだと言う。
貴重な体験談。


あ、そうそう。
一時安否不明だった仙台の叔母さんからメールがあり無事が確認されたことは日記に書いた。
夜は避難所生活だ。
叔母さんは仙台の国分町でラウンジをやっている。
今日から店を再開すると電話があった。
震災の取材してるテレビ局の人に来てもらうように宣伝しといて、と言う。
たくましい。