ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

2012/8/27 がもよん

座右の銘は?、大切にしている言葉は? と聞かれたら何と答えるだろう。
この日記に何度も書いたのはこれかなあ。


  結果が最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。
  そして、最後に意味を持つのは結果ではなく、そこで過ごしたかけがえのない時間なのだ。


                  (星野道夫旅をする木』より)


写真家 故 星野道夫さんの言葉。
うまく行かなかったけど自分で自分を誉めてやりたいときもある。
世の中には2種類の人間がいる。
それをやった奴とやらなかった奴だ、という考え方。
要するに、やったもの勝ち、やれただけで幸せじゃん、ってことですよね。


      



  人生とは、何かを計画している時に起こってしまう別の出来事。


                 (星野道夫『森と氷河と鯨』より)



これも星野さんの本に書かれていた友人シリア・ハンターの言葉。
含蓄ある言葉だと折に触れ思う。
人生って自分で決めているようで実はそうじゃない。
いわゆる別件が大きく人生の行き先を決めてしまう。


五十の坂を越えて最近思う。
人生後半、少しずつ終わりに向かってはいる。
でも、この先、どんな展開になるかホントのところはわからないのではないか、と。
同年代で石垣島に渡った友人のことを思う。


   人生を決めつけてはいけない。明日のことはわからない。


                 (映画『昼下がり、ローマの恋」より)




…嫁と二人で亡母の遺品をレンタカーのバンを借りて運び出す。
6月に亡くなってからせっせと遺品を整理し処分しようやく最終段階になった。
3DKの小さな市営住宅だけど30年も暮らしているとそれなりのモノが詰まっている。
原則として市には空っぽで明け渡さなければいけない。
風呂釜も、浴槽も、給湯器もすべて業者に取り外してもらう。
じいじいとばあばあの暮らしの痕跡を消す。
精神的にも身体的にも骨の折れる作業だと思う。



突然ですが、大阪の人は蒲生四丁目をガモヨンと呼ぶ。
突然、そのガモヨンが可笑しくて笑いのツボにハマり車の中で二人とも笑いがとまらなくなった。
脳天気? いや不謹慎?
ばあばあが乗ってたら一緒に爆笑してたと思う。


友達ならタニヨンよりガモヨンの方が頼りになりそう。ちょっとガサツそうだけど。
いや、それにしてもガモヨンて。


写真は我が西宮のマンション。
遺品整理のついでに古くなった電子レンジ(まだ使える)や除湿器(ほとんど使わなかった!)を処分する。
  


西宮IC〜豊中IC〜庄内〜江坂〜吹田〜上新庄〜相川を往復する。
車を運転するのは5月以来。
今年はまだ飛行機に乗ってない。
今年はまだ愛知県より東へ行ってない。


大汗をかいて働いたので夜はちょっと贅沢して自宅から徒歩3分の『SUSUE』でイタリアン。
いつもの絶品ブルスケッタとサーモンの燻製をローストした主菜、つけあわせの野菜も美味。
ポルチーニ茸のチーズリゾット、飲み物はグラスビールと白のデキャンタ
スモークサーモンのロースト(ソテーだったかな?)がヒットでした。
 



…オンデマンドでNHKスペシャルを見る。
見応えある一本、そして改めて今も変わらない日本国政府の弱点に空恐ろしくなる。


ロンドンの公文書館で改めて公にされた極秘電報があった。
時は1945年、発信元はヨーロッパー各地に駐在する海軍、陸軍武官、宛先は日本政府。
内容はその年2月のヤルタ会談密約、つまりソ連の対日参戦は時間の問題だということ。
スイスから、ポルトガルから、複数の武官が何度も繰り返し本国に電報を打った。
しかし、日本政府は終戦を決断しなかった。

  


決断出来なかった理由は別番組『海軍反省会』でも示されたような日本独特の“場の空気“であったと示唆されている。
“場の空気”だって? たまったもんじゃない、と怒りを感じる。
310万の日本兵、国民、それ以上とも言われるアジア諸国の犠牲、その死は終戦間際に集中している。
一か月早く終戦を決断出来ていれば、と思う。
ヒロシマも、ナガサキも、シベリア抑留も、中国残留孤児も、北方領土問題も、無かったはずだ。
もしヤルタ会談直後の2月に降伏を決めていれば、米ソの駆け引きはあったにせよ、沖縄戦も、東京大空襲も無かった。
先日、会社の最寄りの京橋駅で空襲犠牲者の追悼供養があった。
京橋駅ホームに流れ弾が落ちて民間人600人以上が犠牲になった。
1945年8月14日のことだった。
あと一日、決断が早ければ、だ。


登山パーティーとしたら日本政府は最低のリーダーだ。
天気予報は最悪だった。
食糧も装備も底をついていた。
にもかかわらず登頂を決行した。
責任をとらされたのはリーダーではなく隊員だった。


ソ連の対日参戦、その情報を握りつぶしたように、福島第一原発の国内外からの情報を文科省が握りつぶしていた。
変わっていないこと知る。