起き抜けの体重70.40キロ。
70キロラインに壁は明白に存在する。
7月に70キロ台に安定してからスキをついて突破しようとするも強力なディフェンスに阻まれる。
ときに71キロ地点まで押し戻されることもあるが、我が軍もたやすくそれ以上は後退しない。
減量はサッカーというよりラグビーのイメージ。
夏の攻防をグラフ化した。
強力な赤いデフェンスライン。
今月中に突破するぞ。
…ヒロが全米テニスを見ている。
中継で紹介されるデータで驚くべき事実を知らされた。
2005年の全豪でサフィンが優勝した。
その次のグランドスラムである全仏でナダルが優勝。
以降、2012年の今年まで男子の四大大会はここ7年間、
フェデラー、ナダル、ジョコビッチ、この3人で優勝を分け合っている。
唯一の例外は2009年の全米でデルポトロ(アルゼンチン)が勝ったのみ。
ジョコの台頭はまだ最近の話なので凄いのはフェデラーとナダルなのかも。
かつての、アガシ&サンプラス、レンドル&エドバーグ&ベッカー、
ボルグ&マッケンロー&コナーズの時代にもここまでの寡占状態はなかった。
アガシ&サンプラスで思い出した。
こんなCMあったよなあ。
http://www.youtube.com/watch?v=HkFytHPxa_4
1995年、9.11以前のニューヨーク、ゲリラテニス、
レッチリのロックンロール、アンドレ&ピート、イケイケのJust do it !
17年前の風景。
…今日は走らず歩かず泳がず漕がず踏まず。
おとなしくニュースデスク、もろもろの準備、発注作業に専念する。
阪神巨人@甲子園、女子プロゴルフ選手権@信楽、この2項目のみ。
女子ゴルフはボツとなる。
…You-Tubeで『標的の村 〜国に訴えられた沖縄・高江の住民たち〜』を見た。
関西では9月1日に放送された琉球朝日放送のドキュメンタリー。
毎日放送から移籍した三上智恵というアナウンサーが取材とナレーションを担当している。
この人、顔は覚えてるが今どうしてるかは知らなかった。
女性には失礼な表現かも知れないが、なかなかどうして骨のある人です。
語りは落ち着いていて、感情に流されず聞きやすい。
何よりもコンパクトで、大事なメッセージが過不足なく伝わってきた。
24分と短いので気軽にさくっと見た。
こんなことになっていたのか、としばし息を飲む。
http://www.youtube.com/watch?v=_Y9jp6XovV0
※You-Tubeは削除されてしまいました。
内容についてわかりやすく番組のWEBページに書かれています。
http://www.qab.co.jp/village-of-target/index.html
この番組の存在はA部老師からのメールで知った。
「(土地を奪われ、さらに国に訴えられても)決して諦めず希望を持つ地元の人たちの声は、国ではなく私達に向けられています。」
毎晩飲んでるだけの人じゃない。
メールにあったこの言葉が胸にずしんと重い。
オスプレイが普天間に配備され住民が抵抗していることは知っていた。
でも、このヤンバルの高江という集落のことは知らなかった。
20年以上前、自転車旅行で東村の山間部を走った。
高江の近くまでは行ったことがあるが知らなかった。
映像を見ると素敵な場所だ。
素敵な土地であることを番組は最初に控えめに伝える。
ここにある小さな山の食堂へ行ってみたい。
ベトナム村の存在も知らなかった。
そして、オスプレイがこの村の上空で訓練するということも知らなかった。
ヘリパッド建設に抗議して座り込みをした住民が国に訴えられたことも知らなかった。
さらに国は、姑息にも、いや、やっぱり、映像の方が明快で雄弁です。
You-Tubeで見て下さい。
防衛局ってなんだ?
アメリカの基地の設備はやっぱり日本がつくってさしあげてるのか?
欧米で禁じられてるSLAPP裁判(Strategic Lawsuit Against Public Participation)ってなんだ?
沖縄のヤンバルで起きていることを知って、福島のことを考えた。
南相馬や双葉町や飯舘村の人たちは抗議するチャンスも与えられず土地を追われた。
居残って抗議したら国に訴えられたかもしれない。
それが東村で起こっていること。
「中国や韓国に領土を脅かされてる日本、アメリカと仲良くしなければ誰が守ってくれるの?」
ネット右翼でもない、ごく普通の若い世代の人からそんな話をよく聞く。
そうか、そう思うのか。
もちろん異論はある。
完膚無きまでに論破することは僕には出来ない。
でも、誰かの犠牲を強いているという事実だけは知っておいて欲しいと思う。
「福島の特別な夏」のような文章でこの事実を紹介できたらな、と思う。
永田さんが今年アップした「書きかけてやめた、福島のことを、もう一度。」の最後に書いている。
http://www.1101.com/fukushima/2012/index.html
しかし、あるとき、ふと思った。
「書かないほうがいい理由」が
山ほどあるからこそ、書いたほうがいい、と。
そうでないと、ぼくらはことばを失うばかりである。
口をつぐんだほうがいい場面がどんどん増えていく。
真剣に考えたすえにことばを飲みこむ沈黙ではなく、
「無難な沈黙」「先送りする沈黙」だらけになってしまう。
なにかをやろうとするとき。
「やったほうがいい理由」と
「やらないほうがいい理由」を比べていったら、
きっと「やらないほうがいい理由」のほうが多い。
自分の中で多数決をしていたら、
たぶん、ずっと、なにもできない。
そして、これはとても大事なことだと思うのだけれど、
なにもできないことを、誰も責めはしないし、
事実、責められるようなことは、なにひとつないのだ。
だから、そんなふうにしているうちに、
月日はあっという間に過ぎてしまって、
「やったほうがいい」と思っていた自分は、
まるで、最初からなかったことになってしまう。
自分のことを思う。
確かにそうだ。
行動は、自分の中の多数決では決して起こせない。
多数決をとってボツにした行動は数知れない。
東村高江の人々の行動も決して計算ずくでは出来ないだろう。
自分のことを思う。