出社するとテレビのモニターに訃報が入った。
藤 圭子(62)死亡 自殺か?
そうか、死んだのか、62だったのか。
僕の勝手なイメージだけど 藤圭子は若くして死ぬ、と思わせる歌手だった。
若く、美しく、幸薄いまま、死んでしまうのだと。
人気ポップス歌手のお母さんになるなんて信じられない。
以前、友人のセルジオが「ついてないわね」なんて台詞は最近誰からも聞かなくなった、とブログかTwitterに書いていた。
僕の勝手なイメージだが藤 圭子は、ついてないわね、という台詞がよく似合う人だった。
阿久悠も「京都から博多まで」の3番で、ついてないわ、と歌わせている。
京都育ちが 博多になれて
可愛いなまりも いつしか消えた
ひとりしみじみ 不幸を感じ
ついてないわと 云いながら
京都から博多まで あなたを追って
今日も逢えずに泣く女
作詞した阿久悠に 「京都から博多まで」宇多田の母 藤圭子、と題されたエッセイがある。
3年くらい前に読んだ文庫で今でも本棚にある。
今の人たちから見ると、藤圭子は宇多田ヒカルの母ということになる。
それはそれ、世代差のことだから仕方のないことであるが、藤圭子という歌手は
単に宇多田ヒカルの母という存在を越えて、なかなか凄かったのだよ、
時代に食い込んだり、時代を引き裂いたりする力は、母の方にあったかもしれないんだよ、
と言いたいのである。 (「歌謡曲の時代」阿久悠 58-60頁)
宇多田ヒカルも悪くない。
でも、僕は藤圭子の世代だろう。
最近、懐かしの歌謡曲を年代別に集めたCDで「新宿の女」を聴いた。
軽いショックだった。
小学生の頃聞いていたイメージと違った。
圧倒的な声量なのだ。
前に出てくるドスのきいた、かつ朗々とし響く歌声。
個性的な美人で幸薄そうなイメージだったから
歌も同様だと思いこんでいたのかもしれない。
その声には凄みさえ感じさせる。
♪ ばかだな ばかだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿のおんな
(石坂まさを 作詞「新宿のおんな」)
阿久悠の息子が彼女の「京都から博多まで」をテレビで見て藤圭子って怖いね、と言ったそうな。
初期の歌に比べて怖さは薄い方なんだよ、と阿久悠は言ったらしい。
この圧倒的な声量の「新宿の女」を聴いて僕が思い浮かべたのは…エディット・ピアフ!
♪ わたしが男になれたなら わたしは女を捨てないわ
ネオンぐらしの蝶々には やさしい言葉がしみたのよ
あなたの夢みて目が濡れた 夜更けのさみしいカウンター
ポイとビールの栓のように 私を見捨てた人なのに
「京都から博多まで」の話だった。
阿久悠が作詞した1972年には山陽新幹線が開通してなかった。(1975年開通)
作詞者のイメージでは、京都と博多は在来線で丸一日かけて行く遠く離れた街だった。
そうだったのか、それを知ってもう一度「京都から博多まで」を聞きたくなった。
その頃、大阪から博多へはどんな名前の特急が走っていたのだろう?
つばめ?こだま? 阿久悠の歌詞には出ては来ない。
阿久悠が死んだのも2007年8月、猛暑の夏だった。
もう10年以上前のことのように思われるのはどうしてだろう。
四季というのは記憶を遠いものにしてしまう。
季節の移ろいには時間を早期熟成させてしまう作用があるのだろうか。