ぷよねこ減量日記 2009/5-2016/1

旧ぷよねこ減量日記です。2016年1月に新旧交代してます。

2014/5/26 じぇじえじえ

朝ドラ「花子とアン」をほぼ皆勤賞で見ている。
ヒロインの吉高由里子を毎日見とれている。
彼女は正統派の和美人だと思う。
姿形は福田某が演じる酔っぱらいのイメージとは大違い。
         


ふと思い出すと、去年の今頃は「あまちゃん」を見始めたばかりだった。
じぇじぇじぇ、を覚えた頃だ。
数年前のような気がする。
2013年は、じぇじえじえ、の年だったのだ。
花子とアン」は甲州弁だ。
驚くときは、 て!  という。
ててて、とは言わない。


もうひとつ、「こびっと頑張れ」というふうに、こびっと、を多用する。
NHKが流行らせようとしてるのが見え見えなのであまり流行らない。
我が家ではけっこう使っている。



…今日、読了した本のことを少し書く。


内田樹小田嶋隆平川克美 「街場の五輪論」(朝日新聞出版)より


内田 オリンピック開催まであと七年しかないから、七年間でこのエリアを完全に除染してクリーンにするというのは不可能なわけですよ。
   だから、あと何年かしたら「もうオリンピックまで間がないが、除染はしきれない。だから、ここはひとつ区切って囲ってしまって、オフリミットということにしよう」と。
   そういう話になると思う。首都高を日本橋の上に通したときと同じ理屈だよ。「もう急がないと間に合わないから」というので、常識的な抵抗を切り捨てる。
   「そうしないと、オリンピックに間に合いません」という言い方をすれば国民は反対しないと思ってるんだ。
   「汚染地を捨てる」という政治決断をするためにも、オリンピック招致は追い風になった。だから官邸はオリンピック招致が決まって、あんなに喜んでいるんだよ。


平川 原発処理は、常にオリンピックの期日を基準にして動くと思うよ。
   家の掃除と同じでさ、もう時間がない、しょうがないから押し入れにゴミを突っこんで、それでお客さんをおもてなしする。
   福島はそういう世論形成になっていくと思うね。


小田嶋 片付けが苦手な人たちの中には、人を招かないと片づけられないという変なクセがあって、片付けるために人を呼ぶという本末転倒なことをやるわけですよ。
    オリンピックで期待してる効果って、それがあると思う。


内田 かなりあるね。


小田嶋 七年後にお客さんが来るから、見た目きれいに整えなきゃいけない。

                                        


…今日はニュースデスク。
雨で甲子園の阪神 ロッテ戦が明日へ延期となった。
あまり書くことが無いので今日読み終えた本の感想を少し。
これは僕が管理人をしている本のレビューのグループ「読書マラソン2014」に書いたものだ。


街場の五輪論

街場の五輪論


「なんとなく安倍政権発足以来、息苦しさを感じているなら、きっと溜飲が下がる。」
眼鏡堂氏がぜひ読んで欲しいとすすめていた。
オリンピックには少なからず思い入れがある。
読んでみようと図書館に予約しておいたがようやく順番が回ってきた。
スポーツ論ではなく現代の日本を論じている。
あっという間に付箋が沢山ついた。
それらをここに書き連ねるのは避けたい。
いま、読んでおいて良かったと思う。


誰もが知っていることだが、オリンピックは美名の影で腐敗している。
でも、オリンピックなんてやめよう、とは誰も言わない。
大義が立派すぎるから反対できないのだ。
ここが一番恐ろしい。
震災の直後も復興とか絆とかの大義には当然ながら誰も反対出来なかった。


この本にはとりたてて新しい見解や直面する問題のソリューションが述べられているわけではない。
そうじゃないかな、と僕らがおぼろげに思っていたことを、
3人の論客があの手この手で補強してくれるという感じ。
でも、確かに溜飲を下げた
そもそも僕は彼らの側の人間なのだ。
ひとつだけ巻末に平川克美が書いていることを紹介する。


  よほどのことがない限り、オリンピックは実施されることとなる。
  お前たちのやっていることは、負け犬の遠吠えであり、
  無駄骨だと言われるかもしれない。
  それでも、遠吠えする意義はある。
  このような圧倒的なオリンピック翼賛の空気のなかでも、
  反対する意見はあったのだということ、
  すくなくとも、この頃までは、まだこういう意見を
  自由に発表できたのだということだけは、記録に残せる。


炭鉱のカナリアを見殺しにしてはならない。
3年後、5年後、これが杞憂にすぎないことを願う。


さて、もっと狭義でマニアックにオリンピックを語ろう。


僕にとって外国で開催されてこそオリンピックなのだ。
日本のオリンピックは僕の中での格は一段落ちる。
かつて開かれた街ならアントワープリレハンメルヘルシンキ
大国ではなく小国がいい。
時差もあった方がいい。
競技は日本時間の早朝とか深夜とかに行われる。
衛星放送の音声がとぎれとぎれで、そこから聞いたことのない国の、
アナウンサーが噛みそうになる奇妙な名前の選手たちがコールされる。
アマチュア時代のオリンピックがいい。
僕にとってオリンピックはナショナリズムの発露の場ではなく、
「街場の…」にも書いてあったが、コスモポリタンな世界への扉だった。
愛知県の片田舎に住んでいた幼い頃の僕はひととき世界市民になれた。


チュニジアトリニダート・トバコレバノン、エチオピア…。
オリンピックで初めて知った国も少なくない。
マモー・ウォルデ、モハメド・ガムーディ、ローランド・マッテス、
ピルミン・ツルブリッケン、アンネマリー・プレル、ネイリー・キム、
エカテリーナ・サボー、トリクシー・シューバ、ラッセ・ビレン…。
声に出してアナウンスしたい異国の名選手たち。
頑迷なオリンピック原理主義者の僕にとって、
1976年のモントリオールまでがオリンピックなのだ。