2014/8/30 死んでるのかも?

涼しくて、しかも晴れている。
夏の間ずっと雲がまとわりついていた六甲山も今日はくっきり見える。
いつもの夏だったら毎日そうなのだけど…。
ひざ痛で朝の運動は回避。
上半身や体幹トレは出来るので9月からはやっていこう。


朝ごはんを食べ終わってヒロが言う。
僕が交通事故に遭う夢を見たのだそう。
ドキっとした。
どんな事故?
運転してて正面衝突した。
わ、即死やん。
でも話したから現実にはならへんわ、と言う。


ふと思った。
もしかしてオレって死んでるのかも。
ちゃんと成仏できなくて未練たらしく嫁の作った朝ごはん食べたくてこの世にいるのかも。
ときどき、そんなシックスセンス的な思いにとらわれることがある。


(本文とは関係ないけど生駒山の上空に沸いていた積乱雲)
   



米文学者で翻訳家の柴田元幸さんに「死んでいるかしら」というエッセイ集がある。


この表題作は面白い。
思わずくすっと笑ってしまった。
そう、Wonder If I'm Dead だ。
僕も柴田先生のような「死んでるのかな?」という感覚に心当たりがあるからだ。
面白いとこをちょっとご紹介。


   自分はもう死んでいるのではないだろうか、と思うことがときどきある。
   朝早く、駅に向かって自転車のペダルをこぎながら、角を曲がるときなどに、
   ふと、僕はこないだの朝こうやって自転車のペダルをこぎながら、角を曲がろうとして、
   実はトラックと正面衝突して死んだんじゃないだろうか、という思いに襲われたりするのである。
   (中略)生きていることを日頃から実感できずにいるという、いわば存在論的次元などとは違う話である。
   むしろ、もっとずっと単純に、えーと何か大事なことを忘れてる気がするんだけど何だったっけかなあ、
   といった、脳味噌の背中のかゆいところにもう少しで手が届きそうなんだけど今一つのところでどうしても届かない、そんな感じなのである。
   (中略)「僕はいま、ここで、こうして生きているんだ!」と叫べるような確固たる生命観を抱いているわけでもないのだ。
   (例外的に、それに近い感触を持てるのは、日当たりのいい部屋に寝転がって、日の光を背中に浴びているときである。
    「幸福とは、日当たりのことである」というのが僕の唯一の個人的哲学なのである。前世は亀だったのだ。)
   たしかに、もし死んでいるのであれば、廻りの「人が何か行ってくれそうなものだ、ということも考えられる。
   しかし、「もしもし、あなた、社会の窓が開いてますよ」というのがなかなか言いづらいのと同じように、
   こういうことは案外、他人からは言いにくいものかもしれない。
   だから実は、僕のまわりの人は、「もしもし、あなた、死んでますよ」と教えてくれたくてうずうずしてるのだけれど、
   どう切り出したらいいか、なかなか思いつけずにいるのかもしれないのである。

   
                             (柴田元幸「死んでいるかしら」より)


ヒロに、口に出したから現実にはならんわ、と言われたけど今日は駅までの道、慎重に自転車を漕いだ。
路地から出てくるダンプカーにひやりとしたり、赤信号で待っているときも大型バスが暴走してこないか気をつけた。
そうすることで、自分はたぶん死んではいないのだ、ということを確認した。


…今日も出社する。
8月に出社しなかったのは1日と2日に東京出張へ行ったときのみ。
皆勤賞!
これでギャラ無しだったら笑ってしまう。
台本の確認。
取材対象者の情報が間違っていた。
訂正してもらう。
24時間テレビの会場となるツイン21へ寄ってモニター出力の場所を確認する。
で、夕方5時。
つい寄ってしまう。
今月8度目。


   



ビール一本だけにして帰宅。
風呂に入って井筒ワインの赤生をいただく。
夕食は自家製バジルソースをからめたジェノヴェーゼ。
最近、ヒロはネットでレシピを調べて何でも自家製してしまう。
なかなか本格的だった。
ワインのつまみにバジルの入ったガーリックバターを塗ったパン。
これも旨い。

   


夜21時過ぎ、カナダにいるタクマと交信。
おもにモニターに出す画像のサイズの確認をする。
さあて、明日いよいよ本番。
終わったら終わったで戦後処理が大変なのはわかっている。
でも、一日二日は忘れてアホになりたい。
あ、死んでるのかもしれんかった。