窓から青空が覗いた。
朝イチで温泉に浸かってきた母が「いい天気だよ。露天風呂にも入ってきた。
木漏れ日がきれいだったよ」と言う。
かなり冷える。
僕らも朝風呂に浸かる。
雲の動きが速い。
うろこ雲というかイワシ雲というか秋の空だ。
昨日は積乱雲のようなモクモク系の雲だったので心配したが今日は朝まではもつかもしれない。
天気予報は昨日の夜の段階では夕方までは晴れだったのが、今朝は昼頃から雨となっている。
参ったね。
とにかく行動は早いに越したことはない。
7時半に朝食を摂ってそそくさと出発。
車で1分の一ノ瀬園地まで行くと乗鞍岳(3026メートル)がくっきりと見える。
それならと昨日の午後に行った牛留め池まで戻り、池に映る乗鞍岳の写真を撮る。
9時前に沢渡駐車場へ。
上高地はマイカー規制があるのでここからバスかタクシーに乗り換える。
バスが停まっていたのですぐに乗り込む。
往復1800円也。
母には進行方向に向かって左窓際に乗せる。
天気はいい。50年ぶりの上高地。
戦前の工事でもっとも難所だった釜トンネル、そこを抜けると焼岳の威容が飛び込んでくる。
母から上高地への旅行の話をよく聞かされた。
結婚する前の話だ。
僕を産んだのは昭和32年、母が24歳の時だから、その旅へ出たのは22歳の頃だったという。
1955年、昭和30年の夏、
当時、名古屋の東邦ガスに勤めていた母は仲よしの安井さんという友人と二人で2泊3日の夏休みをとった。
名古屋から飛騨高山、乗鞍岳へバスで登り平湯温泉で一泊、翌日に安房峠をボンネットバスで越えて上高地へ。
上高地の河童橋の袂にある白樺荘というホテルに泊まったという。
昭和30年の女性二人の旅行はどんなだったろう?
夏の盛り、標高2600メートルの乗鞍畳平から会社に「寒いくらいだよ」と電話をかけたのを記憶している。
バスの車窓からは一面の雲海が見えた。
2日目に訪れた上高地は大きなキスリングザックを背負った登山者で賑わっていた。
朝靄の中を河童橋からキャンプ場のあたり(たぶん小梨平)まで散歩した。
母と友人の安井さんは登山者ではなかった。自ら洋裁で誂えたよそ行きのスーツで旅をした。
その旅行の話を僕が登山を始めるようになってから何度も聞かされた。
結婚、出産、子育て、離婚、再び会社勤め、苦労の種だった父の死…あの夏の旅行から半世紀が経った。
その母も今年で72歳になり、中年になった息子も糖尿病になった。
申し訳ないような気分になる。
バスが大正池に着く頃、穂高連峰が視界に飛び込んできた。
膝が悪く歩くのを心配していた母だったが「降りて歩いてみる?」との誘いに乗った。
上高地に来て天候に恵まれることは一つの僥倖だ。
僕も秋にこれほどの好天に出会ったことはない。
おまけに穂高の中腹は鮮やかな紅葉に彩られているのだ。
大正池の畔には平日だというのに沢山の観光客がいた。
風景は一級品だ。絵葉書のような風景とはこのことだ。
谷川俊太郎の詩がある。
「美しい絵葉書に何も書くことがない。私は今、ここにいる」
絵葉書の文面にそれだけ書いて出すのもいいかもしれない。
幸い、天気予報ははずれ午前中いっぱいは天候はもちそうだ。
ゆっくりゆっくりと歩く。団体客が足早に僕らを抜いていく。
母とヒロが並んでその半分くらいの速度で歩く。30分ほどで田代池に着く。
穂高連峰の好展望地、穂高の向かい六百山の紅葉が美しい。
燃えるような朱色。田代橋近くの梓川の流れは速い。
田代橋を越えてウエストンレリーフの手前にある清水屋ホテルで珈琲休憩をとる。
団体客もここまでは来ず、静かなラウンジは貸し切り状態。珈琲とケーキをとり3人で分ける。
河童橋周辺は大盛況、記念写真をとる観光客が鈴なりだ。
当時、泊まったという「ホテル白樺荘」の土産物屋へ入る。
ヒロは実家への土産に塩羊羹をひとつ買った。
河童橋の上から眺める穂高、中腹の岳沢は紅葉の真っ盛り、
黄と紅のモザイク模様が美しいアクセントになって雄大な風景を彩る。
母も「写ルンです」で何枚も写真を撮る。
橋の上は人でごったかえし追憶に浸るという雰囲気ではなかった。
人混みを避けて上高地ビジターセンターへ。
ここも数年前から場所が変わっている。
がっしりした大きな建物でアメリカあたりの国立公園にありそうな雰囲気だ。
特別催事で「山の詩」のアンソロジーを穂高の四季の写真と並べて展示してあった。
深田久弥、串田孫一、山口輝久らの詩の一編を読みながら写真を眺める。
槍沢に咲き誇るクルマユリやフウロのお花畑の写真に添えられて尾崎喜八の詩があった。
昭和30年の夏を想った。
いちばん楽しかった時を考えると
高山の花のあひだで暮らした
あの透明な美酒のやうな幸福の
夏の幾日がおもはれる
残雪や岩のほとりの
どんな花でも嘆賞に値したし
あらゆる花が夕べの空や星辰の
深い意味を持っていた
そこに空気は香り
太陽の光は純粋に
短い休暇がわたしにとっては
永遠だった。
(尾崎喜八「お花畠」)